今日の福音書の日課で、博士達は、ひれ伏して幼子[キリスト]を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。彼らはキリストに贈り物を捧げたので、私達もするべきです。私達の黄金とは、私達のお金です。それを教会の献金ですし、チャリティへの寄付ですし、毎日のキリストのためにする色々の技です。私達の乳香とは、私達の毎日の甘い行いです。キリストを愛しますので、親切、愛、と助け合いがあります。私達の没薬とは、薬のように、病気を癒やし、悲しい心を慰め、寂しい人を喜ばせ、がっかりした人を希望させる私達の言葉と行いに力づけます。
今日の礼拝の中で大好き3つの博士達に付いての賛美歌を歌います。“かがやく星を” *59番*、“牧人、羊を”*32番*、と“東の星かがやきて” *54番*です。この3つの賛美歌の言葉もメロディーも好きです。ある賛美歌は説教のようですが、この3つはそうではありません。とにかく「律法と福音《のルーテル教会の説教ではありません。説明します。説教とは、宗教的な話です。神様やブッダなどについて話します。その目的とは、殆どは、聞き手の悪い振る舞いをチェンジさせる事です。ですから、反抗的な息子は父に言います、「僕に説教しないでくれ《と。悪い説教は裁きだけを言い、新しい行いを要求します。律法的な説教と言います。神の律法だけを言いますーー場合によってそれはふさわしいですがーー目的を果たさないかも知れません。逆に、律法を全然言わないで、優しい慰める言葉だけをいいますーー場合によってそれもふさわしいですがーー目的を果たさないかも知れません。
ルーテル教会の説教者である私に聞きましたら、今日の賛美歌は説教ではありません。歌う人が、もうすでにキリスト信者で律法と福音を知る事を仮定します。しかし、ルーテル教会の説教が仮定するのは、聞き手が罪人で、再び律法と福音のメッセージを聞く必要がある事です。この新しい年で、私はそのように説教したいと思います。今日の福音書の日課から3つの例をあげましょう。
「10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。《学者達はキリストに贈り物をあげたので、私達もそうするべきです。問題とは、私達が、キリストに私達の黄金と愛の贈り物をあげない事です。自分が貧しいからではありません。ケチですし、恐れがあり、愛と信仰が足りないからです。自分の幸せを考えて、愛を分かち合わないです。福音のメッセージは、神の愛です。ヨハネ3:16が教えるように、ご自分の御子を与えて下さったほどこの世を愛して下さいました。この御子はご自分の命を私達にあたえます。又、赦しと救いと愛を下さいます。この力は、私達の恐れを砕き、私達の心を開きますので、神様や他の人を愛をあげる事が出来ます。
甘い香りの香水のような乳香のかわりに、私達の人生が臭いです。罪で腐kusaっています。他の人がその罪を目で見る事が出来なくても、振る舞いでそれを嗅kaぐ事が出来ます。古い英語の表現があります。「It stinks to high heaven. 天国に届くほど臭い。《その意味とは非常に臭い事ですが、私達の振る舞いになりますと、文字通りです。天国の神様が分かります。
旧約聖書に乳香のような香が神様に捧げられていました。香の煙が天国に上がって行ったように、私達の祈りも天国に上がって行きます。それで、祈りで考え始めましょう。何故ならば、福音書の中では、イエス様はよく私達の為に祈ります。荒野の中にも、最後の晩餐の時も、ゲッセメネの園の中で又十字架上です。ルカ23:34、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。《この祈りが父なる神様に聞かれていました。私達が赦されています。洗礼によって、私達がきれいに洗っています。聖霊の炎によって、清められて、新鮮になります。それから、神様にふさわしい聖なる人生を始めます。私達の人生は、イエス様の足にしたマリアのようです。ヨハネ12:3、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。《
没薬は香水も薬でもありました。痛み止めとして使われました。しかし、私達はよく他の人に痛みをつけます。又、必要な時、人を助けません。いつも良いサマリア人ではいません。道路の向こう側を歩きます。いや、それよりも、その旅人をおそった泥棒のようでしょう。言葉や行いによって他の人にキズをつけます。その罪を認める時、自分が悪いと認める時、その時神の律法を聞き始めます。チェンジするには自分が弱いと分かります。神様の助けが必要と分かります。それで、福音を聞く必要があると分かります。
イエス様は病気の人を癒やしたり死んだ人を復活させたりしました。イエス様はやさしいひとでした。しかし、福音の中心とは、イエス様が私達から痛みを受けた事です。私達の罪がイエス様に痛みと苦しみを与えました。十字架上で、その痛みをご自分の上に取りました。博士達は、苦しみを受けるメシアには痛み止めの薬のような没薬がひつようになると分かったでしょうか。予言のようでしょうか。この2つの聖書の箇所を聞いて下さい。
マルコ15:22-23,「そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所《――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。《ヨハネ19:38-40,「38その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。39そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。40彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。《
その苦しみと死によってイエス様は私達を癒やして下さいます。罪を赦して、悪い良心を慰めて、永遠の命と救いを下さって、聖霊を下さいます。それで今、心と思いと魂が癒やされて、キリストの癒やす愛を苦しんでいる他の人に広げる事が出来ます。
賛美歌はよく祈りです。キリストが私達に、黄金、乳香と没薬より素晴らしいギフトを下さるように祈ります。即ち、自分や愛する人の為に、愛と平和と喜びと健康の為に祈ります。
アーメン。