律法と愛と赦し

キリスト教会とは、自分の救い主としてイエス・キリストを信じる人々の交わりです。神様は御自分の創造物を愛します、世の人々を愛します。その造られた者が、愛と調和を持ってお互いに愛し合うようにして欲しいと思います。人間はAIロボットではありません。自由に考え、ものを感じられ、愛し,憎み、その感情や感じることによってものごとを決めて、判断する事が出来ます。健康的な心にある人は、自分自身を愛します。それで、私達は食べたり、飲んだり、楽しんだり、自分の体を大事にして守ります。これは、健康的な自愛です。

 

       問題が起こるのは、この自愛が他の人を愛さない時です。その時、他の人に対する罪があります。小さい罪があれば、でっかい・ひどい罪もあります。家族や友達や隣人の中で個人的に起こります。又、公に、国の政治の中での罪は、他の国や自分の国民に対して起こります。戦争や不正義やわいろや欲張りや自己中心的な行動が起こります。

 

         社会的な秩序を守る為に、人々に害がないように、法律があります。聖パウロは、その公の秩序の為に、神様は地上の政府を立てました。ですから、政府に従うべきです。旧約聖書の本・出エジプト記に、モーセはイスラエル人を荒れ野の中につれて、そこでその人々が一つの民、一つの国になりました。社会的に共に活きる為に、神様が律法を下さいました。すべての人々に分かり易い十の戒めがありました。その他には、約600ぐらいの規定がありました。宗教的な規定や食事に対する規定も、政治の為の規定もありました。イエス様の時代に来ますと、その上に多くの他の規定も作られたのです。分かりにくくなりました。私達の現代と同じように、律法を全部知って守る事が難しかったです。

 

         ある時、一人がイエス様に聞きました:マタイ22:35、

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

         聖パウロは、ローマにあったキリスト信者に、その第二の偉大なる愛の戒めをこのように表現しました:

ローマ13:8,「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9 『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 

         この愛は自分の家族や近所の隣人だけの為にではありません。社会のすべての人々の所です。この愛によって、先に読んだ箇所の直前の言葉を理解する事が出来ます。そこで、パウロは書きました:

         ローマ13:1,5-7,

13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

13:5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 

       続けて書きました、ローマ13:8,「8互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」

 

         政府や他の上にある権利者が罪深い行いをして、それをするように命令する時について、今日、話したくありません。聖ペトロが言った言葉だけを言います:使徒言行録5:29、ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と。

 

         隣人を愛する事の意味とは何でしょうか。和解を探して、赦す事であると私は思います。イエス様は今日の福音書でそのように教えました。マタイ18:15, 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」

 

         これこそは、福音のメッセージだと思います。人間は神に対して罪を犯しました。イエス様は来られて、その罪を教えました。「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。福音を信じる事とは、神は自分の救い主であって、自分の罪や誤りや欠点を赦してくださると信じる事です。私達を神と和解させる為に、イエス様は十字架上で死んで下さいました。私達を裁くためにではなくて、私達を救うために来られました。私達が罪を犯す事をやめる事が出来ない罪人であるのに、イエス様は私達の事をあきらめません。ペトロに言われました、兄弟を7の70倍も赦しなさいと。言い換えますと、いつまでも、絶えず赦しなさいと。何故ならば、そのように神様は私達を赦します、無限で永遠にします。

 

         マタイ18章は、隣人と3回ほど話すように言います。そのあと、隣人は伝道する相手になります。私達はあきらめません。

 

         イエス様は言われました:マタイ18:18,「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」イエス様の御名によって集まるとき、何を願うでしょうか。私が思うのは、隣人を愛して赦し続ける為の恵みと力と聖霊の為です。隣人がまだまだ、いつまでも罪人でしょう。私達も同じように、まだまだ、いつまでも罪人でしょう。自分の為に赦しが欲しいとおもいますし、他の人をも赦したいと思います。それが主の祈りが教える事です。「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。」

 

         赦しが、完全な愛だと私は思います。神様は私達をそのように愛する事を十字架は教えます。赦しはいつも簡単な事ではありません。イエス様の十字架上の苦しみがそれを表します。それで、聖パウロは私達に勇気を与えて言います:ローマ13:9、「『隣人を自分のように愛しなさい』。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

 

         アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師

沖縄ルーテル教会