「定められた時」に「なおさら」 ローマ 5: 1~8

ローマ5:6-15
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

今日の使徒書の中の二つの表現が好きです。「なおさら」と「定められた時」。

神様の愛はどのぐらい大きいでしょうか。ヨハネ3:16によりますと、神の愛は世界を救うほど大きいです。そうでしたら、あなたや私を救う為の愛は充分大きいです。聖パウロによりますと、私達が救われる前も、神様は私達を愛して下さいました。私達が神様の敵であった時にも私達を愛して下さいました。「神の敵」とは、無神論者や宗教を疑う人や宗教を無視する人だけではありません。「神の敵」は、神様の事を知っていながら、神様を憎む人の事です。私達は、神を信じる者でしたが、神が敵のように感じました。自分の人生の中で神様がいないで欲しいと思いました。神様の律法は、自分の自由を奪う鎖のようだと思いました。自分が罪人であると私達に思い起こさせる聖霊はうるさいと思いました。私達が反抗的な羊のようで、良い羊飼いであるイエス様に従おうと思いませんでした。 しかし、神様はまだまだ私達を愛して下さいました。まだ私達が罪人である時でさえも、自分の反抗と憎しみの中で滅びている時でさえも、神様は御自分の御子イエス・キリストを使わして下さいました。ご自分を憎む罪人の為にイエス様は死んで下さいました。その愛を計る事が出来ません。

まだ罪深い敵である時、そんなに私達を愛して下さいましたら、なおさら、神様の友達、神様の息子と娘になった私達を愛するでしょう。人々はすべての子供達を愛しても、お父さんは自分の子供をなおさら愛するでしょう。すべての子供が可愛いと思いましても、自分の子はなおさら可愛いと思うでしょう。他の人々の健康と福祉に関心があっても、自分の家族の事をなおさら大事にして心配するでしょう。ですから、もし父なる神様が以前に私達を愛しましたら、今こそ私達をなおさら愛するでしょう!比べる事が出来ないでしょう。計る事が出来ません。

聖パウロはアダムについて話します。その食べてはいけない果物を食べる時、アダムとエバは最初の罪を犯しても、私達はそれを繰り返しました。罪と死がこの世に入り込みました。それは、ばい菌やウイルスや遺伝子の変化のようでしょう。すべての人間が罪を犯して、すべての人間が死にます。一人の人、その古いアダムによって罪は始まりました。しかし、今は、一人の新しい人・イエス・キリストがいます。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」罪と死には力がありますが、神様の恵みはなおさら力強いです。恵みの方に力があるのは、それが神様の無償の贈り物だからです。愛と恵みは、罪よりなおさら強いです。

これを理解しなければなりません。これを信じなければなりません。自分の心の中に入れ込まなければなりません。 罪と悪魔とこの世は、自分が神様の愛より強いといつも私達に信じさせたいと思います。私達が神様の愛を受ける価値がないと分かります。自分が罪深くてその罪をコントロールする事が出来ないと分かります。罪を犯さないようには出来ません。自分が弱いと分かります。そして、深く考え始めますと、自分の人生の問題が神様のせいだと思ってしまいます。自分の頭が悪い事は神のせいだ、自分の体の不十分なことは神様のせいだ、自分が他の人との付き合いがうまく出来ない事も神様のせいだと思ってしまいます。アダムとエバに自由意志があるように造られたので、神様を責めます。しかし、そうしなければ、人間はただのA.I.のロボットのようになるでしょう。自然の中の災い、台風、疫病、竜巻、洪水などを「天災」と呼んで、天国の神様のせいだと思います。神様は敵で、私達には、力がないと感じます。しかし、それなのに、神様の愛と恵みがそのすべてのものより強いです。イエス様の死と復活によって、私達は神様の友達になりました。和解させられました。神様と和解させられて、イエス様によって救われています。私達の主イエス・キリストによって、信じる為の恵み、希望する事が出来る恵み、喜ぶ事が出来る恵みがあります。

神様のタイミングはすばらしいです。聖パウロは書きました、「実にキリストは、私達がまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」 その定められた時はいつでしょうか。キリストのベツレヘムで生まれた時や十字架上で死んだ時と言えるでしょうが、自分自身にとって丁度良い時にしましょう。あなたの為に救いが必要な時です。罪人に赦しが必要とする時です。神様の敵に和解が必要である時です。丁度良い時に、聖霊はあなたを呼んで、洗礼によってあなたに名前をつけ、信仰を創って、神様の無償の贈り物である恵みを下さいました。人によってこれは人生の違う時期になるでしょう。又、多くの人の為にその時期が何回も来ます。犯した罪の為に自分の良心に思い煩っている時、それは丁度良い時です。キリストが私の為に死んで下さったのです。信仰によって、その十字架上の赦しを自分のものに再びなります。又、私が心配した時、丁度良い時、神様は慰めと希望の言葉を語って下さいました。病気の時、丁度良い時、神様は私を癒して下さいました。私の忍耐が短いので、もっと早く直して下されば良いと思いますが、神様には一番良い時が分かりました。神様の業を見る丁度良い時とは、私達が弱い時です。また私達が強い時もです。いつも神様の愛と恵みを見る事が出来ます。

終わりに、この詩篇の綺麗な言葉を読みたいと思います。神様の “good timing”です。

  • 詩篇86:7。「苦難の襲うとき私が呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう。」
  • 詩篇102:2。「主よ、私の祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。」
  • 詩篇91:15。神は言われます、「彼が私を呼び求める時、彼に答え/苦難の襲う時、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。」
  • 第2コリント6:2。神は言っておられる「『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(イザヤ49:8)

私達はいつも神様のタイミングを分からなくても、信頼する事が出来ます。丁度良いと定められた時、私達の罪や失望から私達を救い出しますので、なおさら、私達の人生に恵みを自由を与えて下さるでしょう。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会