われを試みに会わせず、悪より救い出したまえ

受難節の第一主日の聖書日課の毎年のテーマとは、荒れ野でのイエス様の誘惑です。今年、アブラハムの話も読みます。自分の息子イサクを主なる神様に犠牲としてささげるかどうかテストされました。今日、どのように、私達の信仰が試されているか、どのように罪を犯すように誘惑されたかについて考えましょう。

「誘惑、テスト、試す、試練、試み」と言う言葉は似ています。何かを選ぶかや決めるかの意味です。すべての誘惑が罪ではありません。例えば、バレンタインのチョコレットの食べすぎは別に罪ではありません。しかし、罪に至る誘惑の問題とは、私達を神様から離す事が出来るからです。私達を神様から遠く引き離すのは、私達が赦しを求めない時や、神の恵みを疑う時や、自分や他の人に傷をつける時です。人生の試練や悲しみは、神様を信じるかどうか、信頼するかどうか疑わせます。ですから誘惑と試練が危ないです。ですから、主の祈りにこのように祈る事が教えられています:「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。」

この言葉を祈る時どのように祈るかを分かちあいたいと思います。この言葉を話す時間が短いですが、その間に、私の頭の能ミソの中は忙しいです。

神様が私を試みに会わせず、いや、その試みから遠く離すように祈ります。自分の信仰の試みがないように:神や悪魔やこの世や自分の罪深い性質や自分の心と性欲が自分の信仰を試さないように、自分が弱いと分かります。人生に何回も誘惑に落ちてしまったと思います。自分の信仰が試され、攻撃された事がありました。しかし、自分が頑固で、自分のやり方で物事をしたいと思います。それで、分かっているのは、試みられて誘惑されましたら、落ちる可能性があり,いや、多分落ちて罪を犯すだろうと思います。マルチン・ルターの小教理問答書に書いているように、「まちがった信仰や絶望、またはその他の大きなトガや罪悪」に落ちる恐れがあります。それで、けんそんをもって、願って祈って、最初から試みや誘惑がないように祈ります。

しかし、罪を犯したらーー罪を犯す時、主の祈りの次の言葉を一生懸命に祈ります:「悪より救い出したまえ。」礼拝の最初の所には、罪の告白と赦しがあります。自分の罪の為に神様からの罰を受けるべきだと分かります。しかし、私は神の哀れみの為に祈ります。罪を犯す最中の時も、神の守りを願います。例えば、怒って誰かと喧嘩しますと、その人が私を攻撃しない事です。又、運転してスピードを出しすぎるように誘惑された時、交通違反の切符を受けない事です。誰も私の罪を見ないように、恥を受けない事です。病気にならないように、けががないように。すべての種類の悪より、神様が私を救い出すように祈ります。
主の祈りの最初の言葉は、「天にましますわれらの父よ」“我らの、私達の父よ”です。自分だけの為にだけではなくて、他の人の為にも祈ります。私達皆が試みに会わないように祈ります。試された時、難しい選択をしなければならない時、正しい選択をするように祈ります。自分の家族の為にを初め、私の教会も、いや、国の為にまでも祈ります。

皆は自分の将来に影響がある選択します。私は、以前にした選択を考えます。あるものは後悔します、あるものはうれしいです。神様の導きの手をよく見ます。例えば、神学大学に行くように、聖霊が私に選択の知恵を下さいました。日本に来るように導いて、日本ルーテル教団の牧師になるように、昌子と結婚するように導いて下さいました。など等。

問題があっても、神様は私を悪から安全にしました。そして、悪と危ない時、例えば、重い病気や心臓のバイパス手術の時、その悪の時に、神様は私と共にいました。それで、「悪より救い出して下さい」と言う言葉は、私の心の中に、このようになっています:「主よ、感謝します。私や他の人を、悪や危ない時に、救い出して下さったので、感謝します。」

困った時、私の一番好きな聖句を思い起こします。ローマ8:28です、 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

神様はアブラハムの信仰を試しました。アブラハムの信仰と信頼を見た時、息子イサクを殺すのをやめさせました。イサクの代わりに別の犠牲の物を備えました。『アブラハムは目を凝koらして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた』のです。私達の信仰と信頼を見る時、神様は犠牲として、十字架につけられた羊を備えます。世の罪を取り除く神の子羊です。この神の羊は、罪の荒れ野の中にいる私達と共にいます。私達が誘惑を受ける時にも、私達と共にいます。この神の羊は私達を悪より救い出して下さいます。
このような神に祈ります。自分の価値や自分の力にたよりません。神様のあわれみ、恵み,赦しと愛に頼ります。どうして神様が私達を愛するでしょうか。どうして私達をあわれんで助けるでしょうか。その答えは、主の祈りの最後の言葉にあります。
「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。」

どうか、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平和が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会