2022年4月3日、受難節5C  ルカ20:9-20

 

我らの隅の親石であるイエス様

 

ルカ20:9-20

20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。

20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。

20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。

20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』

20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

20:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。

 

 

 

我らの隅の親石であるイエス様

 

建物や家や道路や橋でも建設する前に、測量士(そくりょうし)は、それがどこで正しく立てるか測ってその場所を示す為にマーカーを土に付けます。その一点から家を立てるためのすべてを測ります。これは隅角の石の目的です。現代、その角の石はただの飾りです。献堂式の時に付けます。しかし、昔は最初に置かれた石です。測量士によって付けられました。一番大切な石でした。

 

イエス様が言われるのは、ご自分がその隅の親石であり、ご自分によって私達は自分の宗教や自分の人生を測ります。「ぶどう園と農夫」のとたとえ話を話しました。それで宗教の指導者達を非難して、ユダヤ教やキリスト教の将来を予言しました。17節。20:17 『イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」』

この言葉で、イエス様ご自身が私達の宗教や私達の人生の新しい整理する方法になります。農夫の例え話のように言いますと、神様に自分の人生の果実を与え、神様が送ってくださるしもべを尊敬することです。

 

イエス様が私達の隅の親石になりますと、彼の上に私達の宗教や信仰や人生を建てます。この隅の親石が私達の存在の一部です。イエス様は後につけくわえるアドアンではありません。スマートフォンのアップではありません。イエス様は私達のOSオペレーティングシステムです。イエス様がいないと私達は何も出来ません。全ては無意味で無駄です。イエス様の人間になる事、誕生、洗礼、宣教の働き、苦しみ、死、復活と昇天は、私達の人生の一部になります。それで、私達はイエス様の洗礼に参加して、彼は私達の洗礼式に参加します。彼の十字架上の苦しみに参加します、彼は私達の毎日の苦しみと悩みに参加します、即ち、私達が悩む時、イエス様が私達の痛みをただ知る訳ではなくて、彼も苦しみます。私達がキリストと共に死ぬ時、私達と共に死にます。ですから、私達はキリストの復活に加えられていますので、私達も復活し、永遠の命へキリスト共に昇天します。

 

イエス様は自分の時代の宗教の指導者達を非難しました。その律法学者たちや祭司長たちでした。現代のキリスト教会は、隅の親石としてイエス様をキープする事をこの例え話によって習わなければなりません。教会の歴史を見る時、教会の教え、教理、習慣等が別の石に建てられるとどうなるか分かります。その別の石とは、権力の石、支配、金、栄光、プライド、石頭のような頑固等です。新しい分裂や喧嘩の争いはいつも、古い教会が正しくない物の上に建てられていると強調します。同じように、マルチン・ルターと宗教改革者達は、教会がキリストに戻るように呼びかけました。他の改革の運動、昔も現代も同じです。「キリストに戻れ!聖書に戻れ!信仰のみ、恵みのみ、キリストのみに戻れ!」と。

 

この例え話を教えた時、神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせていました(20:1)。ですからこの例え話は私達を含めてすべての人々のためです。私達も人生の果物の収穫を神様に収めて、神様から送られた僕を尊敬すべきです。その僕が言うのは、『イエス・キリストである隅の親石だけに人生を建てなさい』と。この僕とは、牧師、教師、両親、友達、本、インタネットのポスト、聖書、賛美歌、プレイス・ソングなどです。私達の土台はどなたでるか思い起こします。勿論、他の物や人に指すものに気をつけましょう。ちょっとキリスト教のように見えるのですが、実はただの自分の行いによる義です。キリストや聖霊の助けが要らないで自分で自分を建てる事です。きれいな理想的な言葉ですが、実は私達を裁きます、なぜなれば、不可能な事を要求するからです。十字架やキリストの赦しなしの義、正しさを要求するからです。人生を建てなさいと言いますが、建てる為の道具をくれません。イエス様を与えません。ルーテル教会の表現で言いますと、律法を与えますが福音を与えません。

 

福音とは、イエス様が私達のためになさった事や今もなさる事です。その愛はいつまでもです。私達が罪人でしても、人生の愛と奉仕の実を神様に与えなくても、迷い出ても、隅の親石の上に振る舞いや行いがいつも正しく建てられなくてもです。神様は私達を見捨てません。例え話はそれを教えます。僕を何回も送りました。神様は私達のことを諦めません。ご自分の尊い一人子を私達に送ります。それこそは愛です。それで、キリストである隅の親石の上にしっかり立つ事が出来ます。

アーメン。

 

マイケル・ニアフッド、牧師

沖縄ルーテル教会