受難節第3主日、2023年3月12日 ヨハネ4:5-42

生きている水

イエス様がサマリアの人と話した時、井戸のそばに立ったので、「生きている水」について話しました。言われました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は、イエス様がマジックのような水について話していると思ったでしょう。それを飲めば再び、のどが渇かないだろうと思いました。女は毎日井戸まで、くみに行かなくてもいいと思いました。自分の家の中に現代的な、水道のようなものがあればいいと思いました。イエス様にいじめられていると思いましたので、その仕返しに、イエス様をいじめようと思ったみたいです。それを止めたのは、イエス様が彼女の人生の個人的な事を知る預言者であると分かった時です。しかしイエス様はその女をいじめないで、むしろ福音の真理を語りました。二人は井戸のそばにいるので、福音の話をよく理解する為に、自然に興味がわいてくるトピックをもちいて話しました。即ち、例え話のように、「命の水」です。

世界中の多くの家に水道がありません。昔のパレスチナと同じです。自分の家から村の井戸まで、遠くまで歩く事もあります。聖書の話しと同じでしたら、皆は自分のバケツや水がめを持って行きます。そのバケツには、長いひもがつけてあります。これで深い井戸の中から水を汲みます。そして、その水を家まで運んで行きます。家の中に水道が有れば楽でしょう。水道は、決して空っぽにならないバケツのようでしょう。重いバケツを運ぶ事は大変な苦労で、人ののどを乾かすでしょう。私達は沖縄の暑い夏が分かるので、のどの渇きが分かります。再び決して渇かないように、イエス様がその美味しい水を私達に与えたら楽でしょう。同じように、

私達のすべての渇き、すべての欲望を満たして欲しいと思います。私達が困っている時に、いつもイエス様に助けてもらいたいでしょう。私達に必要な物を買う為に、お金を与えて欲しいと思います。そのような「生きた水」が欲しい、川のようにそれはあふれる銀行の口座のようです。しかし、イエス様はそのような事について話しませんでした。

イエス様は言われました。 「この[井戸の]水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」イエス様の水は永遠の命を与えます。一時的な渇きを癒す事だけではありません。便利な奇跡ではなくて救いです。この永遠の命に至る水は何でしょうか。どのようにしてイエス様がそれを私達に下さるでしょうか。理解するには、二つの方法があります。このヨハネによる福音書の中によくあるように、イエス様は同時に両方の意味を考えたでしょう。即ち、聖書と聖霊です。

先ず、その命の水は聖書で、イエス様の啓示や教えです。即ち神の御言葉です。

  • 旧約聖書の箴言(しんげん)18:4 「人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。」
  • 又、箴言13:14が言います、「賢人の教えは命の源。」
  • イザヤ55:1では、神様は人が生きる事が出来る為に、御言葉を聞くように言われます、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」
  • そして、綺麗な詩篇42編「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」
  • そして、詩篇23編「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる。…わたしの杯を溢れさせてくださる。」

神の御言葉は命の水です。永遠の命に至る水です。

あなたは、神の御言葉の為に渇いた事がありますか。私が最初に日本に来た時、日本語がぜんぜん分かりませんでした。毎週日曜日に日本語のルーテル教会に通わなければなりませんでした。しばらくしてから、本当に福音を聞きたいと思いましたので、分からない日本語の説教の時間に福音の御言葉を教える聖書のテキストブックや神学的な本を読みました。英語の賛美歌と同じ日本語の賛美歌が多いので、楽しいでした。式文をも楽しみにしました:たとえ言葉が違っても、その意味が同じで、そしてその意味を心から分かっていたからです。しかし、自分の罪が燃えている火のように感じる時、罪の告白の言葉を祈って、私の心が神様の赦しの約束を聞く為に渇き、信仰によって、その赦しと恵みを受け入れるまで落ち着きませんでした。その赦しの宣言の言葉が分かりました。その言葉が冷たい、美味しい、命の水のように聞きました。日本語の言葉が分からなくても、十字架をきる牧師の手の意味が分かりました。聖餐式の時は同じでした。

イエス様は渇く事がよく分かりました。サマリヤの井戸の時もそうですし、40日間荒れ野にいる時もそうですし、十字架上にいる時もそうです。「私は渇く」と言われました。全世界の罪と苦しみによって彼の上に置かれた渇きです。冷たい水でもこの渇きを癒す事が出来ませんでした。十字架上で流されたキリストの血のみがそれを出来たのです。赦しと恵みの為の犠牲は、永遠の命に至る誠の命の水です。

「命の水」は神様の救いの福音の御言葉ですし、又、イエス様が与える聖霊です。ヨハネ7:37-39を聞いてください。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」ヨハネ6:63で言われました、「命を与えるのは“霊”である。」

「生ける水」の意味は、同時に御言葉でも、聖霊でもあります。御言葉と聖霊の間に選ばなくてもいいでしょう:何故ならば、聖霊は神様の御言葉を霊感的に与えて、それを啓示して、その福音を私達の心に語るからです。これは、「永遠の命に至る水」です。

又、洗礼のシンボルもあるでしょう。しかし、バプテスマの水を飲みません、赦しと新しい命、溺れ死ぬ事と復活です。しかし、バプテスマは本当に「永遠の命に至る水」です。聖パウロは、第1コリント12:13でこのように書きました、「つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

井戸のそばにいた女の人は、その日に命の水をいただきました。その女の信仰の成長を見る事が出来ます。先ず、イエス様を知らない人で、次に、彼を預言者と呼び、そして最後に、キリストである救い主として信仰を告白しました。その生きている信仰が湧き出す事のように、町の人々に言いました、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」そして、その町の人々もその信仰の命の水を飲んで、信仰を告白しました、彼らは女に言いました、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからで。

皆さん、スポーツドリンクを飲む前に、自分の欲望と渇望を癒す為に別のものを飲む前に、まず神様の御言葉によって、自分の霊的な渇きを癒して下さい。祈りと賛美と礼拝によってです。聖霊はあなたに永遠の命に至る水を下さいます。

アーメン。                   マイケル・ニアフッド牧師  沖縄ルーテル教会