聖書を読む時、一つのメガネが足りません。詩篇や預言を読む時、その箇所の元々の状態を見る為に一つのメガネが必要です。最初にその箇所はダビデ王や出エジプトについてでしょう。2つ目のメガネは、キリストの誕生や死と復活を見る為です。3つ目のメガネで、自分個人と現代の状態に付いての聖霊のメッセージを見ます。

 

         今日2つのメガネで今日の福音書を見たいと思います。先ず、“その時とその所”を見て、そして、”今の時と今の所”を見ましょう。すなわち、この箇所を歴史上の出来事として読んで、そして、どのように現代の私達に語るように読みます。

 

         始めましょう。     マタイ4:12-16。

「12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退shirizoかれた。 13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔kohanの町カファルナウムに来て住まわれた。 14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。[イザヤ9:1-4.]

15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿mizuumisoいの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 

         私達が分かるように、イエス様は、ダビデ王の街ベツレヘムで生まれました。マタイによる福音書2章によりますと、それが大切です。何故ならば、預言者ミカ[5:2]がそれを予言したからです。子供のキリストを探す時、博士達にそれが教えられました。「マタイ2:6、ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/私の民イスラエルの牧者となるからである。」

 

         それで、ユダヤ人達が思ったのは、メシアがベツレヘムから出て、そこから働く事です。[参考:ヨハネ7:41-42「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。42メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」]

しかし、マタイ2章がこのように教えます。イエス様がベツレヘムで生まれましたが、ヘロデ大王に殺さないように、聖なる家族はエジプトに逃げました。ヘロデ王が死んだ後に、イスラエルに帰りました。多分ベツレヘムで住もうと思ったが、安全なナザレに住みました。

マタイ2:22-23「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継tsuいでユダヤを支配していると聞き、そこに行く事を恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」

 

         ユダヤ人達が思ったのは、メシアがベツレヘムから出て、そこから働く事です。ですから、マタイはどうしてイエス様がガリラヤで働き始めたか説明しました。イザヤの預言を成就する為にでした。それで、「16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。

 

        イエス様は福音の光を照らしました。「17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」このメッセージがガリラヤ地方の人々に大きな希望と喜びを与えました。自分達が「暗闇に住む…死の陰の地に住む者」だったと感じたかどうか分かりませんが、あそこは貧しい所で、都のエルサレムから遠いでした。しかし、イエス様が来られて、神の国の良い知れせを述べ伝えた時、自分達の上に「16光が射し込んだ」と分かりました。ある人が考えたのは、メシアが軍隊の指導者で、ローマの兵隊を追い出すと希望しました。他方で、多くの人々が見たのは、イエス様がメシアで、愛と喜びと健康と平和を毎日の人生に与える者です。ですから、光と希望がありました。

 

         この光と希望の福音を広げる為に、イエス様を手伝う人が必要でした。弟子達が必要でした。御自分の働きをガリラヤより遠い所まで、福音をのべつるように訓練します。それで、弟子達を選びました。今日の福音書の日課には、最初の4人の弟子です。ペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネです。「20すぐに網を捨てて従った。」行く準備をもうすでに出来たのです。もうすでにイエス様の教えを聞きましたので[参考:ヨハネ1:40-42]、喜んですべてを捨ててイエス様について行きました。

 

 

         2部.

         2つ目のメガネをかけて、聖霊が今日、あなたに話すのを見ましょう。   「16暗闇に住む民」は「ゼブルンの地とナフタリの地」の人々だけではありません。私達も暗闇の地に住んでいます。沖縄に住んで、私達の所も「湖沿いの道」です。ここも暗闇の地であるのは、人々がイエス・キリストの福音を知らないからです。その暗闇の原因が間違って思います。沖縄の色々の問題だと思います。政治上や社会的や経済的や個人の問題や健康の問題があります;戦争が終わってもアメリカ軍はまだまだいますし、古い迷信と習慣が強い、サラリが低い、コロナウィルスがまだ恐ろしいです。この問題を解決する希望がありますか?希望が消えそうですか。

 

         福音のメッセージはこの全ての問題を解決しません。イエス様は、ガラリアにいる時、イスラエルのすべての問題を解決しませんでした。しかし、イエス様は希望を与えました。イエス様は言われました、「17悔い改めよ。天の国は近づいた」と。神様は近づいたのです。神はあなたと共にいます。あなたの暗闇の中にも、神の光があります。

 

         イエス様が十字架上にいる時、「マタイ27:45 昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」のです。天気が悪いからだけではありません。罪や病気や憎しみや不信仰もありました。その全てがイエス様の上にありました。罪が赦されました。永遠の命の希望が与えられました。そして、3日目に復活した朝は明るく輝く朝でした。それこそがキリスト信者達に希望を与えます。メシアが来られて私達の人生の問題を全て治す事を待っていません。自分が赦されて救われているので光があります。

 

         イエス様は弟子達を呼びまして、希望と愛と平和の福音を述べ伝える為に訓練しました。その同じ希望と愛と平和の福音を述べ伝える為に私達をも呼んで下さいます。先ず、毎日の活動の中でその福音によって生きるのです。私達の心と思いと振る舞いの中には光があります。それで、イエス様に従うように呼ばれている時、もうすでに準備が出来ています。ペトロと他の漁師と違って、私達は自分の網や仕事や家を捨てる必要がありません。何故ならば、私達のいる所で働くように呼ばれているからです。それで、他の人に光を照らす事が出来ます。親切な言葉や赦しや平和を与えます。そしてチャンスがあれば、自分の信仰を分かち合います。このようにして、私達の周りの暗闇の中に、神の光が照らします。

         アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師、沖縄ルーテル教会