2023年6月11日、聖霊降臨後第2主日

マタイのうように招かれた」

福音書  マタイ99-13 (15)

9:9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

        今年の夏、毎週日曜日の福音書の日課は、マタイによる福音書からです。今日読むのは、イエス様は弟子になるように、マタイに言われました、「私に従いなさい」と。マタイと言う人はだれでしょうか。今日、3つの答えにします。

  • 先ず、マタイとは、歴史上のイエス様の弟子でした。
  • 2、聖霊は、マタイの福音書を通して、読者として私達に語りますので、マタイとは、あなたと私です。
  • 3、マタイとは、ご自分に従うようにイエス様に呼ばれる必要がある人です。そして、どうしてイエス様がそのような人に声をかけるか、私達には分かりません。

        先ず、ご自分が書かれた本には、マタイは自分の名前が「マタイ」であるように書きます。マルコ(2:14)やルカ(5:27)による福音書では、名前は「レビ」です。新約聖書の中では、多くの人に2つの名前があります。たとえば、シモンはペテロと呼ばれ、サウロはパウロと呼ばれています。徴税人として集まったお金は、ローマ政府の為でした。ファリサイ派の人々は、イスラエルを侵入したローマを憎みましたので、マタイが異邦人と働く事によって汚れた者で、イスラエルに対する裏切り者と思いました。ファリサイ派の人々は、徴税人を罪人として考えました。神様に対して正しくないので、救われていないと思いました。ファリサイ派の人々は、異邦人や徴税人や他の罪人で自分達を汚したくありませんでした。今日の福音書をよみます。「イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」もしイエス様がそのような人と共に食事しましたら、イエス様も罪人であるのでしょうか。イエス様を信頼する事ができるでしょうか。彼の教えを信じられますか。どうしてイエス様が、ご自分の弟子になるように、罪人に呼びかけたでしょうか。

        イエス様の答えは綺麗です。「12イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」イエス様に招かれて、マタイは大喜びました。ですからお祝いする為に、多くの友達を自分の家に呼んで、ご馳走しました。イエス様の言葉が、マタイとその友達に喜びと確信を与えました。自分達が完全な義人ではないと分かりましたが、イエス様の言葉によって、自分達でさえも、神の哀れみ深い愛を受ける喜びと希望がありました。

  • 2、聖霊は、マタイの福音書を通して、読者として私達に語りますので、マタイとは、あなたと私です。

        私達は徴税人ではなくても、まだ罪人です。他の人が、マタイに対する理由と違って、私達を見下(くだ)すかもしれません。ある人は私達の職業を非難したり、ある人は、ファリサイ派の人のように、私達の宗教の持ち方、いや、自分と違う持ち方の為に非難したりします。でも、私達は他の人の非難がいりません。自分自身が自分を非難するからです。日曜日の朝、自分の罪を告白しますし、一週間の間の間違いと決点が分かります。疑いを持って、「どうしてイエス様が私を呼んだでしょうか。」「私は本当にイエス様に従って生きているでしょうか。」

        自己jiko非難しながら、もしイエス様が自分を呼ばなかったら、どうなるだろうと考えます。福音によって、もし聖霊が自分を呼ばなかったら、今日、自分はこにいるだろうかと考えます。罪人で、自分が徴税人のような所に座っているでしょうか。人生の目標や意味がないでしょうか。又、別のものに従うでしょうか。そのものが天国に導かないので、罪、失望、地獄に導くでしょう。ですから、イエス様が自分に「私に従いなさい」と言われますと、とっても喜ばしいことです。マタイは喜んで、友達の為に宴会を開きました。私達も喜びを持って、洗礼を受けて、その洗礼の為に神様に感謝します。

        伝道の時、一つの表現は「自分の救い主としてイエス様を受けなさい」と。その言葉はOKですが、それをするのは、先ず、イエス様が自分を受けて下さったと分かる時です。御自分の弟子として、イエス様が、私を、罪深い私を受け入れて下さいました。ですから、自分がイエス様に従うように決心するよりも、イエス様が自分を導くと決心して下さったと分かってきます。

         マタイは弟子と使徒になりました。フルタイムの教会の仕事をする人でした。マタイは伝道師や先生や著者でした。伝道師として、キリストに従う方法は、マタイ自身に従う方法だと言ったでしょう。彼の書いた福音書は、キリスト教会の祝福になりました。どうでしょうか。私達もキリスト教会の祝福になったでしょうか。他の人がキリストに従うように呼びかけるために、私達が正式な伝道者や牧師にならなくても良いです。子供達は両親に従います。友達が友達に従います。

  • 3、マタイとは、ご自分に従うようにイエス様に呼ばれる必要がある人です。そして、どうしてイエス様がそのような人に声をかけるか、私達には分かりません。

        ファリサイ派の人々のように、私達も他の人を裁きます。他の人の罪を見ます。他の人の悪い人格を見ます。その生活ぶりを見ます。その生活ぶりがつみ深いと思います。その人の友達を見ます。どうして、イエス様がそのような人を呼んだだろうかと思います。その中、教会の中で問題を起こす人がいます。その人を追い出すか、最初からはいらさないほうがいいでしょうか。キリスト教会は、ファリサイ派の人でいっぱいです。いつもそうでした。私達は、他の罪人を裁く罪人です。罪を裁くべきです。しかし、赦しも必要です。赦しは難しいですが、赦す事はイエス様に従う事であると私は思います。イエス様が言われました:「自分の十字架を背負って、私の後にしたがいなさい」と。イエス様は御自分の十字架を背負って、死刑の所に向かって行きました。世の罪を赦す為に死にました.そして、3日目に再び甦りました。私達は、死ぬイエス様も復活するイエス様にも従います。それで、私達もイエス様と共に死んで復活します。洗礼の信仰によって、私達は罪人として死んで、聖徒として復活します。

        今日の福音書を読みます。「11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」

         自分が病気な罪人ですが、偉大なる医者なる神様の哀れみを受けました。この偉大なる医者は、私達の病気を始め、私達の罪を癒す事が出来ます。又、甦らせる事が出来ます、永遠の命です。自分がその哀れみを受けたので、哀れみを受けた他の罪人と共に祝う事が出来ます。

         アーメン。

                                       マイケルニアフッド牧師
                                         沖縄ルーテル教会