福音書  マルコ 9: 2~ 9 (新78)

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

********************

 

イエス様が弟子たちに「山を登ろう]と言われた時、弟子達はピクニックや遠足だろうと思ったかも知れません。キリストの形の変容を見るだろうと思わなかったでしょう。それで、イエス様の服は輝き、真っ白くなった時、怖がりました。モーセとエリヤも現れてイエス様と共に話した時も怖がりました。他の人は、そのような怖い時、逃げて身を隠すでしょうが、その時ペトロは言いました、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と。素晴らしくて、長くそこにとどまる事が出来るように、「仮小屋を三つ建てましょう」と言いました。その恐怖(きょうふ)を増やして、彼らの上にかっかってきた雲の中に来た父なる神様の声です。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。

 

以前にイエス様の栄光をもうすでに見たと思ったでしょう。奇跡の中でや、水を葡萄酒にしたり、海の上を歩いたり、病人を癒したり、大勢の集まりで福音を述べ伝えたりしたからです。又、イエス様の栄光が将来に、新しいメシアの王として、ローマ人を追い出して、イスラエルを再び力強い国にして、地上の神の国を建てるだろうと思ったでしょう。

 

現代も、多くの人は、神の栄光がそのようなものであるはずだと思います。癒しと平和。イエス様が自分の国、その学校や家を支配すべきだと思います。全世界に平和があるべきだと思います。キリスト教会が国の政府を支配するべきだと思います。イエス様の栄光は、教会の栄光と教会の力であるはずだと思います。すくなとも、ご自分の栄光を表して、私や私の愛する者に富と幸いを下さるべきです。

 

問題とは、弟子達も私達も、栄光とは何であるか分からないからです。ですから、栄光は本当に何であるか、イエス様は私達に教えなければなりません。天からの声が言われたようです、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。モーセとエリヤの話を聞け。モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から約束の地に導きしました.エリヤは、イスラエルの本当の神とは、主なる神であると述べ伝えました。モーセもエリヤも主なる神の栄光を表す奇跡をしました。その奇跡は神の愛、哀れみ、導きと赦しを表しました。モーセとエリヤとイエス様が山の上で会った時、今度のイエス様の働きについて話しました。救いの仕事でした。罪や地獄の奴隷状態から導き出して、天国の永遠の命の約束の地への導きです。

 

イエス様の本当の栄光が、別の山で見ます。その時、二人の犯罪人との話すのです。3つの仮小屋ではなくて、3本の十字架です。輝く雲ではなくて、暗闇です。イエス様の衣が輝かないのは、その洋服が彼からとられたからです。「ハレルヤ」の代わりに、鳴き声と恐怖がありました。これは栄光でしょうか。栄光があるのは、その場所で行われた出来事が素晴らしいからです。その栄光を確認して、イエス様は「すべてが成し遂げられた」と言われた時です。そして、イエス様が死んだとき、私達に命が与えられました。イエス様が死んだとき、私たちの罪が赦されていました。死んだ時、地獄の門が開けられて、私達が自由になりました。それで、イエス様の十字架上の苦しみと死には栄光があります。

 

          変容、変貌、メタモーフォス。形が変わる。変態。

 

          イエス様の最初の変容とは、赤ちゃんとしてベツレヘムで生まれた時だと言えるでしょう。神である性質がなくなって人間の性質に変えたと言いませんが、新しい形になったと言います。それで、イエス様は、同時に神であり人間であります。神の性質が布にくるんで隠されました。それが必要であるのは、世の罪をご自分の上に取る為に、キリストが人間になることです。人間の罪だからです。同時に、神の性質が必要でした。世の罪を赦す犠牲になる為でした。そして、彼の死が命に変容されました。

 

          私達の変容にもなりました。私達が罪人から聖人に変えました。私達の変容は、「悔い改め」や「信仰」と言います。神のみ言葉と聖礼典によって変えられました。洗礼と聖餐式です。その変容 見るのは私達 キリスト信者としての人生です。神の栄光が私達の生き方に見えます:愛、喜び、平和等の聖霊の実です(ガラテヤ5:22)。もう、自分の栄光を受ける為に生きる事ではなくて、神に栄光を与える為です。これは信仰の人生です。

 

          そして、いつも、国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。

 

マイケル・ニアフッド牧師

沖縄ルーテル教会