針の目を通る  2021年10月17日

マルコ10:23*31
23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。《24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。《26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか《と互いに言った。
27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。《28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました《と言いだした。29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倊受け、後の世では永遠の命を受ける。31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。《


イエス様は言われました、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。《そして私達は賛成します、《はい、その通りです。神様を信じていない金持ちがいるし、お金を得る為に十戒をすべて破るものがいます。確かに、そのような人が天国に入らないでしょう。同時に、良いキリスト信者の金持ちもいます。主を愛し人間を愛しますので、確かに天国に行くでしょう。》その例の人を考えられます、今現代の人も歴史上の有吊な金持もいます。沢山のお金があれば、多くの善も多くの悪も出来ます。

しかし、私達は他の人を裁いてはいけません。世界の多くの人々の目では、私達は金持ちです。住む所があるし、食べ物が十分あるからです。それで、イエス様は私達のことについて話します。聖書を読むたびに、聖霊は私達一人一人に語る事を理解しなければなりません。聖書は私達を告発し注意します。弟子たちはイエス様の言葉を聞いて驚いて言いました、「それでは、だれが救われるのだろうか《と。弟子達でさえも救われますか。現代の弟子達である私達も救われますか。天国の門である針の穴を通る事は私達の為にも難しいです。ラクダと同じように、針の小さい穴を通る事が出来ません、上可能です。実は、人間が天国に入る事が上可能です。しかしイエス様は言われました、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。《

これはキリスト教会のとっても大切な教えです。10月は宗教改革の月です。マルチン・ルターの時代、人々は、天国に入る事が難しいと分かりました。入る為に、よく働くか免罪符を買う事が必要と思いました。地獄や煉獄を恐れました。上安でした。天国に行く為に、どうやって神様の針の目を通る事が出来るか心配しました。宗教改革の一つのテーマは、「天国に行く方法《です。自分が金持ちでしたら、免罪符を沢山買う事が出来ました。貧しい人でしたら、良い業を沢山して、特別の祈りを沢山祈る事が出来ました。こうして、天国の富をつむ事、クレジットを作る事が出来ました。しかし問題とは、聖書の中には、煉獄の教えがありません。その上、もし、人が自分の救いを買う事が出来ましたら、もし自分の働きによって天国に行けるならば、イエス様は十字架上で死ぬ事が必要ではありませんでした。アンチ・キリストです。しかし、これは、1517年の教会の教えでした。

それで、マルチン・ルターがその95か条を張る時、大きな騒ぎになりました。免罪符の販売や煉獄の反対だったからです。もしそのものが悪ければ、人々は思ったのは、弟子達がイエス様に聞いたように、「それでは、だれが救われるのだろうか《と。ルターの答えは、イエス様の答えと同じでした、即ち、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でも出来るからだ。《神の恵みです。それを受ける私達の信仰です。ラテン語の表現ですが、「Sola Gratia 恵みのみ、Sola Fide 信仰のみ《と。針の目を通る方法はそれしかありません。即ち、神様の恵みの働きによるだけです。

では、その神様の働きとは何ですか。始まり、イエス様はその上可能の門を通ってこの地上に来られて.ベツレヘムでお生まれになった時です。そして、十字架上で、どんなラクダでもより大きい重荷をご自分の上に取りました。それで、その針の目を通る事が上可能になりました。世の罪、世の寂しさ、その病気、世の富も世の貧しさも、その上安と恐れなどは、イエス様と共に十字架に釘で付けられました。イエス様は死にました。次に、人間にとって上可能な事がありました。イエス様はお墓の狭い門から通って、復活しました。このようにして、私達の為に天国を開きました。

あなたは、その針のどちらの面に立っているでしょうか。地上の面か天国の面ですか。もしかしたら、一つの足はこちらの方、もう一つの足はあちらのほうでしょうか。もう一つの宗教改革時代のラテン語の表現があります。「Simul Justus et Pecattor, 同時に聖徒と罪人《と。救われた罪人、罪深い聖人、神の恵みに完全に頼る人、罪の告白、信仰の告白、神様が何でも出来ると信頼する事です。

イエス様に従って、私達は同時に貧乏であり、金持ちです。それは、神のみ国の生き方です。

アーメン。