2023.10.8 イザヤ 5:1–7、マタイ 21:33–46
約束の地、神のぶどう園
主なる神様はアブラハムを呼んで、夜空の星の数のように子孫を約束して、民として住む土地をも約束しました。この約束の地をカナンやパレスチナと呼びます。
主なる神様は、モーセを燃える芝の中から呼んで、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を約束の地まで導くように言われました。「乳と蜜の流れる土地」(出3:8)です。牛乳があれば、豊かな牧草の所です。それで、乳とチースとローストビーフです。パンの上に甘いはちみつを付けます。又、豊かな土地の他の生産物があります、麦、オリブ、ぶどうなどです。
預言者イザヤは、歌を書きました。イスラエルの民を綺麗なぶどう園に例えました。神様は一番良いぶどうを植えました、即ちイスラエル人です。そしてかれらを守る為に、その真ん中に見張りの塔を立てました。
神様は、おいしいぶどうを楽しみにしましたが、「良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」イザヤは続けて歌います、
「7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/ 見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに/ 見よ、叫喚(ツェアカ)。」
それで、神様は、そのぶどう園、即ちイスラエルを見捨てます。人々がバビロンに奴隷のように連れさられました。しかし、神様はアブラハムに言われた約束を守って、人々を約束の地に導いて帰られました。
イエス様も、イスラエルをぶどう園に比べました。そして、“ぶどう園と農夫”の例え話を語るとき、ユダヤ人がイエス様の意味をはっきり理解することが出来ました。
例え話をもう一度読みます、マタイ21:33-41,
「33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」」
ユダヤ人にこの例え話が分かりました。彼らこそはその農夫達でした。イスラエルの民の世話を見て、神様に収穫を与えるべき者でした。その収穫とは、愛を始め、正義、平和、正直などです。イザヤの後に、多くの預言者達が神様によって送られました。イスラエルの中の暴力や不正義を指めしました。しかし、ユダヤ人は彼らを無視したり、袋だたきにしたり、石で打ち殺したりしました。最後の預言者であったバプテスマ・ヨハネをも受け入れませんでした。それで、主なる神様――ぶどう園の主人――は、ご自分の御子、イエス様を送りました。例え話でイエス様が御自分の事を意味する事であるとユダヤ人が分かりました。その後、ユダヤ人達はイエス様を裁きました。イエス様がエルサレムの町の外のゴルゴタの丘に十字架の上に殺されました。例え話の予言はこのように言います、「39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」又、「43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
主の年、AD70年、ローマの兵隊はエルサレムの町とその神殿を破壊しました。ぶどう園が教会に与えられました。それは、地上のすべての教会です、町々の地域教会にも、又、一人一人のクリスチャンにも与えられました。自分が働く所とは、自分の家や自分の周りでしょう。この所に主なる神は実を探します。愛と正義と平和です。聖霊の実を見つける時があれば、酸っぱいぶどうもあります。山ぶどうを食べた事がありますか。北海道の山にあります。取って食べようと思いました。しかし、す~~ごくす酸っぱくて、口の中に穴が焼けたみたいでした。
私達の教会の中や私達の人生の中で、神様はそのような物を見つけます。それは、自分の人生であるぶどう園からイエス様を追い出して、自分の罪や欲張りや憎しみや反抗やプライドや馬鹿な事で、イエス様を十字架に付けます。
神様は何をするでしょうか。いつもと同じ事をするでしょう。即ち、御子を遣わすでしょう。十字架上で死ぬ為に御子を送りました。聖霊を送ります。聖霊は、福音の約束を私達に思い起こさせます。聖霊は、信仰を与えますので、私達がイエス様を自分の人生の「隅の親石」として受け入れる事が出来ます。イエス様の十字架は、私達に罪の赦しを与えます。
ある時、イエス様は言われました、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)。これは、唯一の真の生き方です。命と祝福を与えるイエス様につながる事が必要です。その時から、その祝福を他の人に与える時に、その収穫を神様に返す事が出来ます。これこそは、約束の地に生きる事です。もうすでに、神の愛と恵みである乳と密が流れています。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会