あなたは宝を探す人ですか。また、バーゲン・ハンターでしょうか。そうでしたら、今日の福音書の日課をすぐ理解する事が出来るでしょう。イエス様は、神の国について話しました。3つの短い例えです。ある人は畑に隠された宝を見つけます。ある商人が高価な真珠を一つ見つけます。漁師が網の中に良い魚を見つけます。

         私のような説教者は、例え話が大好きです。それを見て、このような質問をします。:その商人はだれですか、高価な真珠は何ですか、宝を探す事の意味は何ですか、その宝を手に入るために、すべての持ち物を売る事の意味は何ですか。そして、説教者として聞きます。あなたと僕と教会の為に、この意味は何ですか。又、イエス様のかかわりは何ですか。

[イエス様は言われました:]44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

         その宝は救いの福音です。例え話の人は、救いを探しました。多くの所を探したでしょう:宗教の中、哲学の中、政治の中、自然の中も探したでしょう。それで、イエス・キリストと神の国の福音を見つけた時、他のものよりも、この宝の価値がはるかに高いと分かりました。本当の宝だと分かりました。それをほしいと思いました。手に入れたいと思いました。自分のすべての持ち物より、価値があると分かりました。喜びを持ってその畑を買いました。喜びを持って福音を信じました。

         この例え話を理解する為に、私達はその宝探しの人になる必要があります。私達は、良い幸せな人生の宝をアチコチ、すべての所に探しました。もうすでにキリスト信者になって洗礼を受けても、念のために、別の所に宝があるかどうか考えた事があるでしょう。又、キリスト信者になる前に、人生の意味を他の所に探したでしょう。科学の中、自然の中、他の宗教の中、他のキリスト教の宗派などです。そして最後に、福音の宝、高価な福音の真珠を見つけました。福音と赦しと永遠の命を見つけました。

         それで、次の質問とは、その宝や高価な真珠や救いを得るために、どのぐらい払ったでしょうか。例え話の人や商人は、その宝を得る為にすべての持ち物をすっかり売り払いました。救いを得る為に、私達もすべてをすっかり売り払い、それを買ったでしょうか。私個人ですが、生まれて3週間後、洗礼を受けたのでその時から自分がクリスチャンでした。教会学校の時、福音を信じました。もちろん、自分にはお金がないし、持ち物も少ないでした。そして、今ある自分の持ち物は全部、牧師としての働きのサラリーからです。言い換えますと、教会を通して、私の持ち物全部が神様からきました。それで、神様に上げる事が出来る物は、神様から下さった物ばかりです。それで、宝が隠された畑を買う為には、自分の人生でしょう。自分のキリスト信者としての生き方からでしょう。その宝を見つけた人の喜びです。イエス・キリストである宝を見つける時の喜びです。

         そして、説教者として、例え話をもう一つの方法で解釈する事が出来ます。これは一番大切な方法でしょう。即ち、今度、話の主役がイエス様になり、宝が私達になります。イエス様はこの世に来られて宝を探しました。その宝とは、人です、あなたと私です。

         ある時、イエス様は言われました、「ルカ19:10 人の子がきたのは、 失われたものを尋ね出して救うためである。」この地上に来られたのは、隠した宝である私達を探す為です。イエス様の愛の目で、私達はその高価な真珠でした。ご自分のものにする為に、ご自分の命を捨てる程、イエス様は私達が綺麗な、素晴らしいものであると思いました。高価なもので、高い値段でした、でも、金や銀ではなくて、ご自分の命で私達をご自分のものにしました。小教理問答書には、マルティン・ルターはこのように書きました、(使徒信条、2条)「イエス・キリスト....を信じます。主は....失われ、罪人と定められた私を金や銀を持ってではなく、御自分の尊い血と、無罪でありながら受けられた、苦しみと死との代価を払って贖われて、私をすべての罪や死や悪魔の力から、救い出して下さったのです。そして、主が死から甦って、永遠に生きて治められるように、私も主のものとなり、主の御国の一員として生きて、限りない義と純潔と祝福の内にあり、主に仕えるためです。これは確かに真です。」

         ちょっと迷っているかも知れませんが、その宝は何ですか、誰ですか。イエス様は私達を見つけるし、私達はイエス様を見つけます。彼は高価な宝物ですが、彼の目には、私達は素晴らしい宝石です。

         真珠や宝石を持って、何をしますか。指輪にしたり、ネックレスにしたり、ピンにしたり、タイピンにしたりします。ダイアモンドの中の輝いている光を眺める事や、透明な真珠の深さを眺める事が出来ます。又、土の穴に隠す事、宝石箱に閉じこめる事、質屋に売ってその宝を失う事が出来ます。イエス様は言われました、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである。」外に取り出して、皆に見せます。隠されてしまった宝には価値がありません。しかし、イエス様は私達を私達の隠れた所から私達を連れて出します。聖霊の光が私達の人生の宝石の切り子面にさして下さいます。この信仰と喜びは、愛と祈りと奉仕と良い知らせを述べ伝える事によって輝きます。

         その宝はもう隠されていません!イエス様はお墓から甦りました。その宝は世の全ての人々の為です。人々は、それを測る事が出来ない程高価なものとして認めて、それが欲しくて、神の救いを得る為に自分の人生を捨てなければなりません。その宝はもう隠されていません!私達は自分の信仰を告白して、イエス様に自分の人生をささげました。私達にはその宝があり、同時に私達自身がその宝です。そして、私達はイエス様を大事にするように、イエス様は私達を永遠に大事にします!

         アーメン。

マイケル・ニアフッド

沖縄ルーテル教会牧師