福音書 マタイ11:28~30
28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
ローマ7:24-25a
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。イエス様は言われました、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があります。心配を始め、過労、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れ、罪や悪い良心、無力、圧迫、いじめ、争いがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」
しかし、この世のやかましくて空しい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放や展開しかありません。そのものが別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひどくて、そのものが何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦めましたら、それは地獄です。
イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。イエス様は私達の問題の責任を取るからです。私達の痛みを御自分の上に取るからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろに捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。
詩篇23篇は同じ事を言います:「主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主は私の魂をいきかえらせ」。
休ませる方法のもう一つとは、私達に新しい物を下さる事です。
イエス様は言われました、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一種です。 鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その動物をそのワゴンや馬車につながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけますので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。スムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、簡単に負い易くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様が「わたしの軛は負いやすく」と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより扱い易くなります。そして、イエス様の助けによって、私達の重荷がより軽くなります。
イエス様の「くびきは追いやすい」です。即ち、私達の為に丁度良いサイズです、らくに身につける事が出来ます。例えば、すべてのバックパックがすべての登山者の体に合わないものです。ですから、買う前に、身に付けてみて、ストラップを調整して、らくに山のてっぺんまで持つ事が出来るパックを探します。イエス様は私達のサイズが分かります。この人生で、私達が背負う事が出来る仕事を下さいます。そして、聖霊の助けによって、私達の重荷は、さらに負いやすく軽くなります。霊的な重荷も神様にコントロールされています。第一コリント10:13、「10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭aわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
ヘンデルのメサイアの一つのコーラスの合唱はイエス様の言葉を歌います。 「彼の軛は負いやすく、かれの荷は軽いです。」とっても軽くて楽しいメロディーです。私は想像します。ソプラノの女達は新しい洋服を身につけて見ています。テノールの男達は新しいルクサクを身につけてみます。何と言う軽くて、楽で、ちょうどう良いフィットで、ファッションも良くて嬉しくて、皆は舞台の上で踊ります。イエス様の軛は、幸せな贈り物です。
本当です。① 私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいます。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌の一節や二節を覚えておくべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てます。聖餐式によって、毎日の信仰の為の力とイエス様との人生の力をも もらいます。
本当です。② 私には多くの重荷がありますが、一つはこの沖縄ルーテル教会の牧師である事です。この荷を大好きなので、捨てたくありません。しかし、私にとっては丁度良いものです。沖縄ルーテル教会は小さい教会です。私は大きい教会でうまく働く事が出来ないと神様は分かります。同時に、沖縄ルーテル教会の重荷の一つとは、私です。どうか、神様、この教会に恵みと力を下さい。
今日話さなければならない、もう一つの重荷があります。この重荷とは罪です。神様の律法によって、人に罪のクビキにつながれています。十戒の戒めを破るごとに、引っ張らなければならないワゴンの中に、もう一つのレンガを入れられる事のようです。もし一つのレンガがワゴンから落ちましたら、悪魔はそれを拾って、またワゴンに戻して、ほかの2・3本のレンガをも加えます。又、私達が罪人であり、自分の重荷から逃げる事が出来ない、その罪の滅びから自由になる事が出来ないと悪魔は私達に思い起こさせます。この疲れを乗り越えるために、よく寝て、よく食べる事によってでは出来ません。この疲れは、体にも心にも魂にもあります。なお更に疲れさせるのは、失望です。即ち、その重荷をおろす事が出来ないのは、神様の律法によるクビキだからです。しかし、イエス様は言われます、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。』ここでの福音とはイエス様ご自身が私達のクビキを私達からとって、ご自分の上に置かれた事です。彼のクビキは十字架の形でした。イエス様の重荷は世の罪でした。彼にとっては、その軛は負いやすくないし、その荷は軽くありませんでした。しかし、その重荷を負う事によって、私達の罪を取り除いて、罪を滅ぼしてくださいました。イエス様は私達から律法のクビキや罪の重荷を取り除きました。彼が与える新しいクビキとは信仰と愛です。この信仰と愛のクビキがあるので、イエス様から与えられた軽い重荷を負う事が出来ます。この重荷が軽い理由とは、罪が赦されたキリスト信者の人生だからです。
教えなければならないのは、イエス様が下さる新しい重荷とは、十字架です。言われました。「自分の十字架を担って私に従いなさい」と (マタイ10:38)。どうしてその十字架が軽いかと言いますと、それは、イエス様が私達の為にその十字架を背負ってゴルゴダを登って、私達の罪の重荷を取り除く為に十字架に付けられたからです。イエス様は神様であるので、彼の死によって、その罪の重荷が赦されて、その重荷がおろされています。
聖パウロは、この事に大きな慰めを見つけました。聖パウロは、宣教のミッソンの迫害の重荷や宣教の最前線の苦しい状態について文句を言いませんでした。彼が感じた大きな重荷とは、自分自身の良心にあった罪の重荷です。自分で一生懸命に頑張っても、罪を犯さない事が出来ませんでした。自分の心や人生の中は戦争のようでした。平和を見つけられる所とは、イエス・キリストの愛と赦しの中だけでした。このように書きました、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」〔ローマ7:24-25a〕。これは私達の為にも純粋な福音です!
夏の暑さでしても、人生の悩みでしても、ここには、私達の皆の為の休みがあります。イエス様は言われました、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
アーメン。 マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会