ヨハネ10:22-30、 詩篇23篇
詩篇23篇:救いの確信
主(しゅ)はわたしの羊(ひつじ)飼(か)い、
わたしには何(なに)も欠(か)けることがない。
主(しゅ)はわたしを緑(みどり)の野(の)に休(やす)ませ、
憩(いこ)いの水(みず)のほとりに伴(ともな)い、わたしの魂(たましい)を生(い)き返(かえ)らせてくださる。
主(しゅ)はみ名(な)にふさわしく、わたしを正(ただ)しい道(みち)に導(みちび)かれる。
死(し)の陰(かげ)の谷(たに)を行(ゆ)くときも、わたしは災(わざわ)いを恐(おそ)れない。
あなたがわたしと共(とも)にいてくださる。
あなたの鞭(むち)、あなたの杖(つえ)、それがわたしを力(ちから)づける。
わたしを苦(くる)しめる者(もの)を前(まえ)にしても、
あなたはわたしに食(しょく)卓(たく)を整(ととの)えてくださる。
わたしの頭(あたま)に香(こう)油(ゆ)を注(そそ)ぎ、
わたしの杯(さかずき)を溢(あふ)れさせてくださる。
命(いのち)のある限(かぎ)り、恵(めぐ)みと慈(いつく)しみはいつもわたしを追(お)う。
主(しゅ)の家(いえ)にわたしは帰(かえ)り、いつまでも、そこにとどまる。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
今年の1月、3週間入院されました。最初の1週間はICUでした。その時聖書や賛美歌がありませんでした。それで、祈る時、暗記した主の祈りや使徒信条や詩篇23編を祈りました。この詩篇が思い起こしたのは、神の愛です。死(し)の陰(かげ)の谷(たに)を行(ゆ)くときも、神様が私と共にいた事です。又、永遠の住まいの約束を思い出しました。この詩篇が私に平和と安心を与えました。今日の説教は、あなたがたの今日の状態の為に、話さないかも知れませんが、いつかあなたのためになるかも知れません。
多くのキリスト信者達は詩篇23篇が大好きです。このように始まります:「主はわたしの羊飼い、私には何も欠ける事がない。」ある時、イエス様はこのように言われました。「私は良い羊飼いである」と。この詩篇23篇は私やあなたが良い羊であると言いません。何故ならば、私はいつも良い羊ではないし、人生はいつも良い訳ではないからです。神様が良い者です。良くて賢くて、羊にとって必要な物が分かります。私達にとって何が必要か、私達は何が欲しいかと分かります。その緑の野、その緑の牧場は、食べ物と休みと安全とすべての人生が必要とするものの為です。

「憩いの水のほとりに伴い。」この静かな水は、私達の恐れと心配を静めます。キリスト信者達は、この憩いの水を洗礼の水のように考えます。洗礼を受ける事によって、私達は神様の群れの一人になります。神様は私達の上に御自分の名前をつけて、私達は神様の物になります。良い羊飼いよりも、もしイエス様は良いカウボーイでしたら、私達に御自分のブランド、焼印(ヤキイン)をつけます。父と子と聖霊のブランドです。私達は聖なる三位一体の神様の物になります。彼の所有物(ショユウブツ)になります。ですから、彼は御自分の持ち物を守ります、私達を家畜の泥棒から守ります。悪魔やこの世から私達を守ります。羊は毎日水を飲まなければならないと同じように、キリスト信者は、毎日自分の洗礼を覚えなければなりません。私達が祈る度に、そうなります。もしあなたはまだ洗礼を受けていなければ、魂を生き返らせてくださる神様の憩いの水に来て下さい。洗礼を受けられる場所とは、海か川でしても、教会の中でしても、病室の中でも良いです。薬の点滴(てんてき) からの3滴の水の中にも、神様の御言葉と約束と恵みの津波の力があります。魂を生き返らせてくださる憩いの水です。
「主はみ名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。」羊飼いは、その群れを美味しい緑の牧草がある所に導きます。どうしてそれをするでしょうか。勿論、羊の為ですが、しかし、同時に、羊飼いは自分の群れにプライドを持っています。神様は私達にもプライドを持っています。私達を導いて下さる理由とは、それが正しいことであるからです。羊の為に正しい事ですし、神様がする正しい事です。それは神様の特徴です。神様は正しい事をする者です。ご自分の評判の為に、御自分の名にふさわしい事です。私達の世話をするのは、私達が良い羊と小羊であるからではありません。私達の面倒を見て下さるのは、主は私達の神であるからです。それは神様の恵みです。新約聖書の中には、神様の「正しい道」の為に幾つかの表現があります(参考:ローマ3:21以降):「神の義、あがない(犠牲)、あがないの供え物、赦し、救い」です。これはイエス・キリストの働きです。この救いの働きの道は、先ずベツレヘムへ、エルサレムへ、十字架へ行きました。そこで死んで復活した理由とは、私達の為に救いの道を開く為です。信仰を持って私達はイエス様に従います。「主はみ名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。」ですから、自分の人生の為に、神様の導きを信頼します。
「死(し)の陰(かげ)の谷(たに)を行(ゆ)く時」は、確かに、人生に何回もあるでしょう。暗い淵の中にいるように、病気と死に囲まれるでしょう、人生の危険、戦争、争い、ストレスに囲まれるでしょう。神様は、私達がそのような所に入らないように約束しません。しかし、私達と共にいるように約束します。天国に昇天される前に、弟子達に言われました、「見よ、私は世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。良い羊飼いが知るのは、私達にとっては彼と共にいる事が必要である事です。私達のように、イエス様にも、死の陰の谷を行く道がありました。ゲツセマネの園の暗闇の中でこのように祈りました、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、み心のままになさって下さい」(マタイ26:39)。十字架上にいる時、3時間も、地上の全面が暗くなりました。お墓の中は暗いでした。しかし、神様はイエス様と共にいまして、3日目に甦らせました。ですから私達は言う事が出来ます。「私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。」又、彼は私達のボディーガードです。「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」恐れの陰に囲まれていても、私達は安心する事が出来ます。
どうしてでしょうか。私達が良い羊であるからよりも、神様が良い羊飼いであるからです。神様の仕事は、私達が安全に死の陰の谷を通る事が出来る事です。彼の仕事とは、私達を緑の牧場に連れて来る事です。私達の仕事とは、彼の後について行く事です。どうして神様は私達を導いて下さるでしょうか。神様が私達を愛するからです。どうして私達を愛するでしょうか。彼が神様だから私達を愛します。その理由しかありません。それで私達は彼に従います。彼に信頼します。彼に信じます。
詩篇23篇の最後の部分は天国での永遠の命についてです。「主の家に私は帰り、いつまでも、そこにとどまる。」敵の上の勝利を告げます。その敵とは、死を初め、悪魔、人生の危険、そして私達を憎む人々です。私達は天国のお祝いの上席に座らせられました。人生に圧迫されて、低くされた人々はその上席にいますが、以前の敵が嫉妬している事が見えます。人生の貧困と苦労で苦しんだ人は、神様の食卓のご馳走を楽しく頂きます。勿論、天国で「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」のですが、もう既に、信仰と希望を持って、自分の人生の中で神様の恵みと慈しみと愛を見る事が出来ます。自分の人生の中に神様の恵みと愛を本当に見る為に、時々信仰と希望が必要です。時々、神様を見るよりも神様に聞きます。それは、今日の福音書の日課で、イエス様の綺麗な言葉です。ヨハネ10:27-29。「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪う事はできない。私の父が私に下さったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪う事はできない。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師  沖縄ルーテル教会