主の祈りを祈るマイケル牧師

天にましますわれらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日ごとのかてをきょうも与えたまえ、われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。

        天にましますわれらの父よ。  われら。      主の祈りを祈る時、私は自分だけの為に祈らないで、他の人の為にも祈ります。自宅で祈る時、自分と自分の妻の為にで、妻にも日ごとのかてが必要だからです。又は、広くして、親戚や友達の為にも祈ります。教会で祈る時、私と教会の皆さんと共に、お互いの教会全体の為に祈ります。教会にも赦しが必要ですし、お互いに赦し合う事が必要です。自分の心や思いの中では、今朝出席していない方の為にも祈る事があります。そして、私の思いが広くなったら、神様を自分の父と呼ぶすべての人の為にも祈ります。彼らにも、自分の為にこの主の祈りを祈ってもらう必要があるからです。

父よ   イエス様は、私達が神様を「父」と呼ぶように教えます。ただ「神や主や王様」ではなくて「父」です。洗礼を受けて、私は神の子供です。私達皆は天のお父さんの子供達です。彼は遠く離れた宇宙の創造主だけではなくて、恐ろしい裁き主でもありません。私達の為に一番良い事を考えています。それで、恐れなしに祈ります。私達の愛する父に、確信と喜びを持って祈ります。

       願わくはみ名をあがめさせたまえ。   「あがめる」とは何でしょうか。崇める事は礼拝する事ですし、尊敬する事ですし、賛美する事です。それで、「ハレルヤ」のように祈る時があります。イザヤ書6章のセラフィムのように頭の中で歌う事があります、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」しかし、普通に考えているのは、自分の生活の中で、私が私の父の聖なる名前を汚さないように祈ります。即ち、私の父の良い名前、その良い評判を汚さないように。例えば、ある牧師や祭司が何かの恥ずかしい事をしたら、教会の評判が壊されて、人々がキリスト教会の神も悪いと思ってしまいます。それで、神様に喜ばしい生活を送りたいと思います。又、私達の教会がイエスキリストの純粋な福音を延べ伝えるように祈ります。何故ならば、ある教会の教えは、イエス様の教えに恥をかかせます。

 

       み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。 この「地」と言う所を具体的にします。それは、私と私の祈りの相手がいる所です。今朝は、それが、沖縄県北中城村字島袋362番地です。何故ならば、この所こそに、御心ならばみ国が必要です。ある祈る時、神の国が来ましたら、この世の悪を征服して、平和と正義と自由を実現するように祈ります。ある祈る時、宣教の為の祈りです。聖霊の導きによって、私達が伝導して、イエスキリストの福音を広めて、多くの人が救いのみ国に入るように祈ります。ある人の祈りは、神の栄光の国が自分に来て、即ち、もう死ぬ準備をして、もしそれは天の父の御心でしたら、天国の国に入る事です、。

 われらの日ごとのかてをきょうも与えたまえ  感謝の祈りによくなります、特に夕方に祈る時です。その一日に下さったすべての祝福の為に感謝して、明日と毎日の神の世話を楽しみにしています。マルチン・ルターの小教理問答書には、パンのような日々の糧を23ぐらいの物をリストアップします。神様は毎日必要な物を下さいます。祈りのこの時点で、特別の人の特別の事を祈ります。例えば、ある人の癒し、別の人の問題の解決などです。又は、一般的な物の為に祈ります、例えば、世界平和、お腹が飢えている人の食糧、良い天気、などなど。

 われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。       十字架上のイエス様の死によって得られた罪の赦しがあるように祈ります。イエス様は3日目に甦られたので、私達の為にその赦しがあると証明されています。祈るのは、私とあなたと祈る為のほかの人々の罪が神様に赦されるように。その素晴らしい赦しと自由が私達の天の父から与えられたので、他の人を赦す勇気と力があります。それで、うらみ、しかえし、ばつを考えなくても良いので、心が自由です。そのようなものを全部神様のみ手にゆだねます。私は他の人の罪を心配しなくてもよいです。その人が「ごめんなさい」と言う事を待てないのですが、私は、他の人に対して罪を犯したら、失礼な事をしたら、その人に「ごめんなさい」と言いたいと思います。そして、その人が主の祈りを祈る時、私を赦すように願います。

われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。   自分が弱いと分かります。誘惑が来ましたら、多分、私はそれに陥いるでしょう。それで、誘惑と試みが全然来ないよう祈ります。その罪や悪から遠くまで、私を導いて下さい。又、「主よ、疑いによって私の信仰をテストしないでください」と。教会の為に祈る時、この教会をも、試さないように祈ります。例えば、伝導をしやすくする為にや ほかの目的で、福音のメッセージをちょっと変える事です。この教会には、さまざまな問題やチャレンジがあるでしょう。その時、神様はこの教会を守り続けて、悪より救い出すように祈ります。誘惑が来る時があるに違いありません。時々、私は罪を犯すでしょう。その時こそ、「悪より救い出したまえ」と祈ります。たとえば、ずるい事をしたら、誰も見ないように。食べすぎ飲みすぎたら、病気になるように。車を運転する時、スピード出しすぎましたら、事故を起こさないように、人にけがをさせないように祈ります。

 悪より救い出したまえ。      再び言います。私だけではなくて、愛する人や他の人の為にも祈ります。人間の体や思いや心より強い悪があります。自分で支配する事が出来ない悪です。私の愛する人がいろんな悪に襲われています:痛み、病気、心配、恐れ、寂しさなど。「主なる神様よ、私達皆を愛する父よ、悪から救い出して下さい。悪から守って下さい。そして、最後に悪魔と地獄から救い出して下さい」と。

国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。       この賛歌、賛美の言葉が、もともとのギリシャ語の聖書にありませんが、初代の一世紀の教会の祈りに加えられていました。この言葉が言うのは、神様が私達の祈りに答える事が出来る力がある事です。それで確信をもって祈る事が出来ます。最後の「アーメン」はその意味です。「はい、はい、そのようになるのだ」という意味です。ほかの祈りの最後に「イエス様のみ名によって祈ります。アーメン」と言います。主の祈りはそのように終わりません。何故ならば、主の祈りがイエス様によって教えられたので、もうすでにこの祈りがイエス様の権利によってなされてます。神様のみ子イエスキリストから与えられた祈りであるので、われらの天の父がこの祈りを聞くと分かります。それで、洗礼を受けた主の息子たちと娘たちは、お互いに、主が教えられたように祈ります。

 アーメン。

 

マイケルニアフッド牧師

沖縄ルーテル教会