信じる者は幸いである

ヨハネ20:28-31  トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

  トマスだけではなくて、ほかのすべての弟子達にとても、イエス様が甦られた事は信じ

にくいでした。ほとんどの弟子達は目撃者の言葉を信じませんでした。 イエス様はマグダラのマリアやエマウの弟子達や他の10人の弟子達の所に行ってご自分を見せる事が必要でした。ご自分の刺された手とわき腹を見せました。それで、イエス様が本当に復活したと弟子達が確認しました。大喜びしました。イエス様は弟子達に息を吹きかけて聖霊を下さいました。その後、使徒達は全世界に行って福音を延べ伝えました。すなわち、罪の赦しと永遠の命の良い知らせを伝えました。

        彼らが信じる事が出来たのは、イエス・キリストの本当の物質的な体を見る事が出来たからです。私達は、自分達の目でイエス様を見たり、その刺された手とわき腹を触ったりする事がありません。出来ませんので、どのようして私達も信じる事が出来るしょうか。どのようにして私達はイエス様が甦ったと信じるでしょうか。どのように、信じるようになって、トマスと共に、「わたしの主、わたしの神よ」と言えるようになったしょうか。

        それは、私達が目撃者の証を聞いたからです。その証が聖書に書かれています。聖ヨハネはこのように書きました、ヨハネ20:30-31,「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

        あるものが信じにくいです。トマスは言いました、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。ある人は奇跡を見たいと思います。癒しや祈りの答えです。ある人は他のサインを見たいと思います。聖霊の良い気持ちや異言などです。そのものが良いでしょう、役に立つでしょうが、私はそのようなものを信頼しません。自分の心でさえも信頼しないからです。

        ある人は、証拠が全然なくても、何でもかんでも信じます。そのような人を“だまされやすい者”や“ばかもの”と言えるでしょう。逆に、ある人は、証拠が十分あっても、何でもかんでも信じようと思いません。そのような人を“愚かな者”や“ばか者”と言えるでしょう。この地球は本当に平(たいら)でしょうか。太陽は地球を回るでしょうか。政治家が言う事を全部信じるでしょうか。インタネットで見るもの全部正しいと信じますか。ある人は全部信じます。ある人はすべてを疑います。

 ある人は福音を聞きました。イエス様が本当に復活したと知っていますが、トマスと共に「わが主よ、わが神よ」と言おうと思いません。知識と信仰は違います。信仰になるためには大きく飛ぶ事が必要です。ただの知識から、救いの信仰へと飛ぶ事です。聖書の中に書かれている証を読んで、キリスト信者達の話した福音の証を聞いて、その後に、トマスと共に「僕の主、僕の神」と信仰告白します。

       ある人は信じる前に、奇跡を見なければならないと言います。私が思いますが、信じる事こそは奇跡だと思います。聖霊の奇蹟です。私は個人的に、私が信じると分かる事こそ、自分の信仰を強めます。それは、トマスに話した祝福です。言われました、「見ないのに信じる人は、幸いである。」私が祝福されています。うれしいです。心の中には、喜びがあります。

       イエス様は言われました、「見ないのに信じる人は、幸いである。」どうでしょうか。どちらが先にあるでしょうか。信仰か幸か?先に祝福されたから信じるでしょうか。それとも、信じる事の後に幸いになるでしょうか。そして、その祝福は何でしょうか。信仰の結果でしょうか。イエス様が復活したと信じるから神様からのごほうびでしょうか。又、まず、神に恵まれて、その後に信じるでしょうか。神様から信仰の贈り物が先になければ、私達が信じる事が出来るでしょうか。ある聖書の翻訳は、このようです。「見ないのに信じる人は、ハッピです。」それは本当にそうです。私は信じるので、ハッピです、うれしいです。

       「自分の救い主としてイエス様を信じる決心」と言う言葉があります。ルーテル教会の人はそのように話しません。神様が私達を呼ぶ事を決心して下さったと言うでしょう。聖霊の働きです。私達は、決断するよりも、イエス様が、自分の救い主であると分かってくる事です。「悟り」のようでしょうか。

小教理問答所の中で、マルチン・ルターは使徒信条の第三の部分をこのように説明しました。

「私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。それは聖霊が、この地上のすべてのキリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そして、イエス・キリストにある、まことの唯一の信仰のうちに支えられるのと同じです。キリストの教会において聖霊は、私とすべての信仰者の日ごとのすべての罪を豊かにゆるし、そして終わりの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、キリストを信じるすべての者とともに、私に永遠のいのちを与えてくださいます。これはたしかに、本当のことです。

       私の古い神学大学の教授は、これを「アハ!の瞬間」と呼びました。‘オー!私は本当にしんじます!私は恵まれました!本当に幸いです!’と分かってくる瞬間です。

        その時、トマスと共に言います、「私の主、私の神です。アーメン。キリストが甦りました。ハレルヤ!アーメン。」

        どうか、甦られた主の弟子達に話しかけた平和が、あなたの心と思いにありますように。

アーメン。

 マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会