らい病を(わずら)っている10人の人が声を張り上げて、癒の為にイエス様にお願いしました。「イエスさま、先生、どうか、私達を憐れんでください」と言いました。そのひどい、恐ろしい皮膚病の為に、彼らは健康な人のそば近くにいる事が禁じられていました。町の中に入る事が出来ないほどでした。ですから、イエス様の近くにも行く事が出来ませんでした。それで、遠くから叫びました、「イエス様、先生、どうか、私達を哀れんで下さい」と。そして、イエス様はご自分の力強い、聖なる声で、愛と癒しの強い声で答えました、「祭司達の所に行って、体を見せなさい」と。旧約聖書の中で、自然的に治ったら、元気になった らい病人は、祭司の所に行きます。そして、祭司はその人の体をよく調べます。元気になりましたら、祭司はその人が癒されたと正式に宣言します。その後、らい病から清められた人は、自分の村に帰り、自分の家に帰ることが出来ました。そして、その祭司からもらった証明書があったので、家族や友達は安心にその人と接触(せっしょく)することが出来ました。

       今日のストリーには、その10人のらい病人は、祭司のところに行く途中(とちゅう)で清くされたと分かりました。痛みがなくなり、にぶい手の触覚(しょっかく)がもどり、なえていた足が動く事が出来るようになりました。自分達が本当に癒されていると分かった時、一人はイエス様の所に戻って感謝したいと思いましたが、他の9人は、イエス様が言われた通りに、祭司達の所に行かなければならないと思いました。どうしてイエス様の所に帰って感謝しなかったでしょうか。信仰がなかったからです。奇跡を受けましたが、信仰によって癒されていませんでした。イエス様の奇跡的な愛の力によって癒されました。しかし、彼らはそれが分かりませんでした。何故ならば、イエス様がその「癒し主」であると理解するためには、信仰が必要だからです。

自分達を祭司に見せなければならないと思いました。「しなくちゃ」と思いました。このように思いましたら、信仰の業ではなくて、自分の業になります。その癒しが自分達の働きだと思うようになります。「私達がこの事をしたので癒された」と思ったでしょう。「私達はイエス様の命令に従うので、それは素晴らしい業です。命令に従っているので、癒されました」と考えたでしょう。このようにして、イエス様の奇跡が自分達の業になりますので、イエス様に感謝するよりも、自分達に「おめでとう。私達はよくやった」と言うでしょう。

       ですから、助けて下さったイエス様に感謝しなかった事は、礼儀が悪い訳ではありません。礼儀が悪いよりも、信仰が悪いです。いや、信仰がない事です。

       彼らを癒したのは何ですか。祭司達のもとに行くことではありません。イエス様が「行きなさい」と言われた瞬間に、もうすでに癒されたからです。祭司に自分を見せる事は、イエス様が彼らを癒して下さった事を表わす為でしょう。ルカ5章24節に、イエス様は中風(ちゅうぶ)を患っている人に、「起き上がり、床を(かつ)いで家に帰りなさい」と言われた時、「私はあなたを癒す」と言われませんでしたが、癒されている証拠になる命令を言われました。即ち、歩く事や、自分の床を運ぶ事が出来るほど元気になったことです。ですから、十人のらい病人にも同じでしょう。イエス様の力によって癒されました。そして、癒されていますので、祭司のもとに「行きなさい」と命令されました。しかし、信仰によって癒されていませんでした。ただ、イエス様の愛と力によってでした。イエス様は未信者をも癒す事が出来るからです。しかし、ただの癒しだけが充分ではありません。救いも必要です。新約聖書のギリシャ語の「ソテリア」と言う言葉には、(ふた)通り(とお)に翻訳する事が出来ます:「救う」と「癒す」です。「あなたの信仰があなたを救った」又「あなたの信仰があなたを癒した」と。ギリシャ語では「癒す」と「救う」とは同じ言葉です。福音書を書いた聖ルカはお医者さんでしたので、この箇所で教えるのは、らい病人の信仰の為に、その恐ろしい皮膚病を癒す事よりも大切な事がありました、即ち、永遠の救いでした。罪から癒されていたので、救われました。

       十人のらい病人が「イエス様、先生、どうか、私達を哀れんで下さい」と叫びました。現代、世界中で、人々は「哀れんで下さい」とイエス様に叫びます。らい病のような恐ろしい病気があります:コロナやガンなどです。又、疫病のような経済的な状態があります:貧困や飢えや戦争があります。又、心の病気もあります:寂しさやゆううつや不安心などです。ですから、世の人々が叫びます、「どうか、私達を哀れんで下さい。癒して下さい。希望を与えて下さい」と。キリスト信者として、私達はキリストと同じようにしたいと思います。哀れみや同情があり、愛があります。自分には他の人への癒しの賜物があれば嬉しいと思いますが、聖霊が与えて下さったものがあります。それは、哀れみと愛と祈りがあり、援助金を寄付する事ができ、希望を与える言葉があります。そして、チャンスがあれば、真の癒しとイエス・キリストによる救いについて話します。

       今日の話を読む時、謙そんをもって、私達はよくその十人のらい病人のようであると分かります。神様でも、誰でも、私達の叫びを聞くように祈ります。「どうか、私を哀れんで下さい。癒して下さい。希望を与えて下さい」と。そして、分かってくるのは、神様が本当に私達を哀れんで、救って下さった事です。それを理解する時、希望が与えられています。そして、信仰を持っているので、分かるのは、ただの助けや癒しを下さった事だけではありません。救われていると分かります。その時、イエス様の所に走って帰って、癒されたらい病人と同じように、「イエス様の足元にひれ伏して感謝します。」私達の人生は感謝と誉れの人生になります。

       私が好きな聖書の話の一つは、使徒言行録3章6-8です。

「ペトロは[生まれながら足の不自由な男に]言った。『私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し」たのです。

       私達のクリスチャン生活はそのようなものでしたら良いでしょう:歩き回ったり躍ったりして神様を讃美する人生です。らい病人のように、癒されたと分かった時、イエス様のもとに帰って、感謝し、ほめたたえます。イエス様の所に帰る事は、よく「悔い改め」と呼ばれています。悔い改めは、恥ずかしくてつらくて難しいものだと普通に思われていますが、ただ、イエス様の所に行ってひざまずいて、罪を告白して、信仰を告白して、罪の赦し、心の癒しを受ける事です。悔い改めは感謝です。

聖餐式の別の名前は「ユーカリト」即ち「感謝」です。礼拝式文にはこの言葉があります:「主に感謝しましょう。感謝はふさわしいことです」と。今日、その癒されたらい病人、足が癒され踊った人、又、今天国にいるすべての時代の信者達と共に、癒しと救いの為に、主に感謝します。

       アーメン。      
                                     マイケル・ニアフッド牧師,
                                         沖縄ルーテル教会