60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。 66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」私はこのペテロの言葉が好きです。信仰告白です。自分の人生の道の方向を示す言葉です。その道は、永遠の命に至ります。
「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」使徒言行緑4:12では、聖ペテロが逮捕され、ユダヤ人の指導者の前で話す時、イエス様とイエス様の復活について信仰告白しました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」別の行く所が無いでしょう。あなただけは永遠の命の言葉を持っておられます。使徒達のはっきりした教えとは、イエス様だけが永遠の命を与える事が出来る事です。
これはイエス様が話したメッセージです。今日の福音書の日課、ヨハネ6:47ー51で、このように言われました:「47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
命はイエス・キリストだけによってです。ある人の考え、又は、その人の希望とは、天国への別の方法がある事です。キリスト教の道、ユダヤ教の道、イスラム教の道、仏教の道、ヒンズー教の道、又“何でも良い”の道もあります。“何でも良い”の天国への道と
考える人の希望とは、この地上でどんな犯罪を犯しても、神を信じなくても、
関係なくて神様はすべての人々を天国に連れて行くと思う事です。その人の信仰、その人の地上の罪を問わず救う事です。この考えが正しければ、クリスチャンにならなかった人のことも、洗礼を受けなかった人のことも、教会に来ない人の事をも、心配しなくても良いでしょう。宣教や伝道をしなくても良いでしょう。地獄や自分の救いについても心配しなくても良いでしょう。ある人が言います、「神様が愛であるので、だれも地獄に送らないでしょう」と。しかし聖書には、このような教えがありません。聖書が教えるのは、神様が愛であるので、だれも地獄に送りたくない事です:ヨハネ3:16ー18、「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
天国に至る道が沢山ありません。イエス様はマタイ7:13でそれを教えました。「13 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
ある日曜日の朝、北海道の雪国の北見ルーテル教会にいる時、この事を教会に入って来る人々に教えようと思いました。土曜日の夜、大雪でした。教会の玄関前に、高さ1メートル半ぐらいの大きな雪の吹{ふ}きだまりがありました。その雪は湿{しめ}っていて重いでした。ですから、狭い道、スコップの幅だけの狭い道をその雪の吹きだまりの中を通しました。玄関前の雪を全部除雪しなかったので、ある教会会員が文句を言った時、私はイエス様の言葉を引用しました。「狭い門から入りなさい」と。
ペテロは言いました、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」この言葉の意味とは、イエス様以外のほかの道、ほかの救いの所が無い事です。イエス様以外に別の永遠の命の言葉が無い事です。私たちクリスチャンはこの言葉を信じていますが、いつもイエス様について行きません。いつも永遠の命を別のところに探しています。仏教のような別の宗教の中に探してはいませんが、この世の中にはキリスト教のように見える、キリスト教の仮面{かめん}をつけているものがたくさんあります。永遠の命に至らない言葉を話します。わなのようです。
説明します。良い人になって永遠の命を得ようとする時、私達はイエス様の言葉に耳を傾けていません。むしろモーセの言葉を聞いています。十戒を守れば天国に行けると思いましたら、私達はイエス様の福音の言葉を聞いていません。又、救いが、イエス様が十字架上でなさった事によってよりも、自分がする事によって救いがくると思いましたら、私達は正しい道を歩んでいません。その時、イエス様に向かって歩いて行くよりも、自分自身の方向に向かって歩いています。 救いはイエス様が私達の為に十字架上でなさった事に基づいています。それに私達は何もつけ加(くわ)える事が出来ません。もちろん、私達は十戒や国の法律全部を守らなければなりません。それはこの世界が罪深いからです。教会が十戒を教えるのは、私達が神様と隣人を愛しているからです。
ペテロの言葉は、自分を自分で救う事が出来ないと理解している人のためです。実は、私達も、自己中心的な正しい道を歩んでみた事がありますが、その道は行き止まりであるとわかってきました。罪の嵐で橋が流されてしいました。天国に渡る方法がありません。Uターンしなければなりません。聖書の「Uターン」と言う言葉は、「悔い改める」事です。その時、ペテロと共に言います、「主よ、私達はだれのところへ行きましょうか。あなただけは永遠の命の言葉を持っておられます。」「主よ、ほかのだれかの所へ行く事が出来ません。」
困った時、イエス様の所しかありません。ですから、救いの為にイエス様の所に行きます。毎日の生活の助けの為にも、祈りを持ってイエス様の所に行きます。人生の多くの問題と悲劇の解説が出来る方は、イエス様だけであると私達は分かります。天災でしても、経済の問題でしても、家族の問題でしても、病気でしても、自分の弱さが分かってきます。人生で神様だけが私達の避難所です。私は詩編50:15の神様の約束が大好きです。「私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって/お前は私の栄光を輝かすであろう。」
信仰と信頼と喜びを持って、私達は、ペテロとすべての教会と共に言います、「主よ、私達はだれのところへ行きましょうか。あなただけは永遠の命の言葉を持っておられます。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会