イザヤが見た幻、私達が見る幻

          今日、預言者イザヤが見た幻について話したいと思います。イザヤが幻を見たのは、740年BCで、その年は、52年間エルサレムで王様として支配したウジヤが死んだ年です。これは、ダビデ王から250年ぐらい後でした。ユダヤ人達の道徳が堕落したり、外国の軍もエルサレムをおどしたりしました。

           「ウジヤ王が死んだ年のことである」と。その時エルサレムには、大きな政治の不安がありました。北国のイスラエルやシリアとの戦争がありました。ウジヤの後、彼の孫アハズが王になりましたが、不安が続きました。そのような時、神様はイザヤに、幻と使命を与えました。ヴィションとミッションを与えました。その幻は、勿論シンボルのようなものですが、神様の性質について教えます。王様のように見えますが、ウジヤのような地上の王より はるかに優れています。主なる神様は、高く天にある御座(みざ)に座していました。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていたのは、神様の力と威光を表します。

このような時、神様は幻をイザヤに啓示しました。そして、その幻の中で、神様は民のイスラエルのための預言者として、彼らに御言葉を述べ伝える為にイザヤに使命を与え、彼を派遣しました。

           イザヤが見た幻は、これです:

           天国の神殿に主なる神様は「高くあげられた」玉座に座しています。素晴らしい衣のすそが神殿の床を満たす程長いです。玉座の上には、二人の天使がいます、「セラピム」と呼ばれる生き物です。

飛ぶ蛇や竜のようでしょうか。翼と手と足のあるドラゴンのようでしょうか。ぞれぞれ六つの翼を持ちます。二つで御座の上で飛びました。二つで顔を覆うのは、直接に神様の栄光を見えないようにです。そして、二つで体を覆うのは、神様の御前でのけんそんを表します。

 セラピムの仕事とは、神様を誉め讃える事です。互いに呼び交わして言います、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。そして、「その呼ばわっている者の声によって敷居の基(もとい)が動き、神殿の中に煙りが満ちた」のです。

「セラピム」と言う言葉の意味とは、「燃えているもの」です。私は想像しますが、主を賛美する時、いなずまが光って、雷が轟きます。神殿の基が振動して、煙りが神殿を満たします。

 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」3回「聖なる」と言うので、私達クリスチャンはそれが聖なる三位一体の神であると言いたいと思うでしょうが、多分3回言いますのは、神様がとっても、とっても、とっても聖なるものであるからでしょう。又、現代の日本人が誰かにおめでたい事を言う時、「万歳」と3回言う事のようでしょうか。

           これを見て、預言者イザヤはすごく怖がります、「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、私の目が万軍の主なる王を見たのだから」。全能、聖なる主なる神様の前で、彼は自分の命を恐れます。自分の罪を知って、思いと言葉の罪を告白します。

 神様を見る時、恐れは正しい反応です。私達もその同じ恐れが分かります。それは自分の罪を考える時です。けんそんを持って、私達は神様の聖なる清い性質を知ります。十字架上のキリストを見る時、すべてのクリスチャンが、罪の重さを感じます。恥を持って、自分の目と体を覆う翼があれば、又、神様のものすごい、恐ろしい栄光から、翼を持って飛びさって逃げたいと思います。イザヤと共に言えます、「災いだ。わたしも滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」しかし逃げる所がありません。私達の全世界が汚れています。唇を初め、思いも心も行いもそうです。

 しかし、全能の主はイザヤの上に憐れみを与えます。燃えているセラピムの一人は、祭壇から燃えている炭をとってイザヤの唇に触れました。それによって彼の唇を清めて、彼の罪を赦しました。祭壇は罪を赦す犠牲の場所で、その火はイザヤを赦します。

          私達も神様の愛と憐れみを見ました。それは聖霊の火であり、洗礼の水であり、聖餐式のパンであります。私達の咎を去らせ、キリストの十字架上での犠牲によって私達の罪が赦されました。

           赦されたイザヤには、預言者として主に対する献身があり、主に仕えたいと思います。神様は言われました、「私達は誰をつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と。そして、イザヤは答えました、「ここに私がおります。私をおつかわし下さい」と。そして、主なる神様の言葉をイスラエルの民に預言する為に神様はイザヤを使わします。

           イザヤは神様の御言葉を述べ伝えます。裁きと警告と希望の言葉です。イザヤは答えました、「私がここにおります。私を遣わしてください。」私達の心が祝福されて、清くされる時、私達がもう神様の裁きを恐れないので、現代の世界の預言者になりたいと思います。「私がここにおります。私を遣わしてください。」と言います。

           新約聖書には、神様の玉座の幻が与えられていますが、イザヤが見た幻と違います。私達が見る幻は十字架上のイエス様です。「高くあげられた」でしょうが、衣が彼から取られ、くじで兵士の物になりました。6つの翼のセラピムの代わりに、隣に2人の強盗が十字架に付けられたのです。賛美の歌の代わりに、侮辱と冗談です。煙のように、全地を覆う暗闇があり、エルサレムの神殿を揺るがし、神殿のまくをさく地震がありました。

          私達はこの幻を見る事が出来るのは、聖書の福音書の中で、聖霊がそれを啓示するからです。そして、私達はイザヤと同じように恐れます。「わざわいなるかな。僕は死ぬだろう。汚れた唇、汚れた手、汚れた心だ。周りにも罪人ばかりで、逃げる所がない。」私達が最初に神様を見る時、本当に神の存在を感じる時、それは、旧約聖書の神様でしでも新約聖書の神様でしでも、栄光におびている神様でしでも、十字架上の神様でしでも、私達は神様の聖なる性質、罪から完全に離されている聖なる性質、とその力を見ます。神様は危ないです。私達の正しい反応とは、恐れです。恐れることとは、私達は死を恐れるからです。十字架上のイエス様を見る時、死ぬべき者とは、自分自身であると分かります。十字架は滅びのしるしです。

           預言者イザヤはすごく怖がります。しかし、神様の愛と憐れみは、彼の罪を赦す為に、祭壇からの燃えている炭を送りました。神様の愛と憐れみは、私達に祭壇から違うものを送ります。新約聖書の祭壇は、もう動物の犠牲を焼き尽くす所ではなくて、イエス様の十字架です。私達を清めるものは、十字架上で流されたイエス様の血です。イエス様の血は私達の罪を赦します。それが私達に下さった時、燃えている炭の形ではなくて、洗礼のいこいの水の形です。私達を焼きつくす事がありませんが、私達をおぼれさせます。そして、その後は、新しく生まれる事、上から、天から新しく生まれる事があります。

           又、火があると言えるでしょう。先週はペンテコステでした。使徒行伝2章を読みました。聖霊は、天から下りて、炎の舌の形で弟子達の上に現れました。その時、弟子達はこの神様の啓示を見た時、恐れで満たされましたでしょうが、人々は様々な国語で福音を語り始めました。イザヤと同じような反応でした。神様は「私達は誰をつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と言われました時、イザヤはその召命を聞き、御言葉を語る為に自分の人生を神様にささげました、「ここに私がおります。私をおつかわし下さい」と。イエス様は弟子達が行って、御言葉を述べ伝えて、多くの弟子を作るようにと送りました。福音書の中で全能の神様の幻を見た私達も、神様の紹命を聞いて言います、「ここに私がおります。私をおつかわし下さい」と。

           イザヤはエルサレムの人々に、勇気を与える為に見た幻を書き残しました。新約聖書には、聖ヨハネも、神の信者達に勇気を与える為に、見た幻を書き残しました。ヨハネの黙示録4章に書かれています。主なる神様は素晴らしい玉座に座りました。セラピムがいませんが、四つの生き物がいました。

          「7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようでした。8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼がありました。」セラピムと同じ永遠の賛美を歌います。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」     

アーメン。                      

                                   マイケル・ニアフッド

                                   沖縄ルーテル教会牧師