2023.12.31降誕節第1主日 ルカ2:22~40
イエス様が神殿で父に捧げられたように、私達も自分を神様に捧げましょう
神様はモーセをエジプトに送りました。モーセはファローに言いました、「主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。』」しかし、ファローは、[いいえ』と答えました。神様はいくつかの災害を送っても、ファローは頑固でした。最後の災害の後に、ファローは、「行け」と言いました。その最後の災害とは、初子uigoの死でした。主なる神はエジプトの国の中を通って、最初に生まれた人間と動物を殺しました。しかし、イスラエルの子供が安全でした。何故ならば、イスラエル人の家の門につけた羊の血の印を見て、神様はその家に入りませんでした。その家を過ぎ越しました。初子を救う為に、一匹の羊が犠牲として殺されたからです。
その過ぎ越しの出来事を覚える為に、主はモーセに2つの規定を教えました。紅海を渡る前にシナイ山に付く前に与えられた規定です。過ぎ越しの祭りを守る事と、最初に生まれた人間の男の子と動物のオスを神様に捧げる事です(出13章)。初子は神様の持ち物で、人は初子の息子を神から買い戻す、贖う義務がありました(出13:15)。その値段は、銀五シェケルでした(民数18:16)、一枚のシェケルは一日の賃金ぐらいでした。それで、お生まれになった後に、イエス様は神様、ご自分の父から買い戻さなければなりませんでした。それで、マリアとヨセフは、ベツレヘムから離れた9キロメートルのエルサレムの神殿にイエス様を連れて行きました。
その日、もう一つの儀式がありました。母マリアの清めの儀式でした。その捧げる物は「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」のです。
コメント: 新約聖書には、親が子供を神様に与え、買い戻す命令がありません。しかし洗礼の時、キリスト信者の親は子供を連れて来ます、初子の男の子だけではなくて、すべての子供です。洗礼によって、三位一体の神様はその子供を受けて、ご自分の子供にします。その子にご自分の名前を与えます、即ち、父と子と聖霊のみ名です。その時、親は、その子供を神の子として育てるように約束します。神様は、その子供を親から買ったと言えるでしょう。その値段とは、神の子羊の血です、十字架上で流された血です。バプテスマは何のようでしょうか。イスラエルの子供達が渡った紅海でしょう。洗礼は救いの出来事です。私達は、自分の洗礼を覚えて、毎日、自分の人生を主なる神様に捧げます。
② 神殿に連れて行った日、二人の預言者が神殿にいました。預言者は、神の言葉を語る人です。将来に関する言葉や、過去を説明する言葉や、今日の為の神の意思の言葉です。預言者のシメオンとアンナもそうでした。アンナは84歳で、神殿に住んで、いつも祈ったり神を賛美していました。
シメオンももう老人だったでしょう。彼の事はこのように書かれています。「25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た」のです。その日こそ、聖霊がシメオンに神殿に行くように話しました。そして、聖霊はイエス様の所に導いて、イエス様がキリストであると啓示して下さいました。マリアとヨセフはその事をシメオンに教えませんでした。シメオンは幼子を腕に抱き、約束したキリストを自分の目で見させて下さった神様をほめたたえました。自分の人生が完全に満たされたと感じました。
シメオンは彼らを祝福して、イエス様の将来について予言しました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」裁きと救いの言葉です。イエス様の苦しみと死を予言しました。死ぬ時の悲しみは、母マリアの心を指す剣のようです。
アンナはイエス様を見てシメオンの預言を聞いてイエス様がメシアであると信じました。「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」のです。
② コメント: 私達はアンナのようになる事が出来ます。彼女のように私達はいつも教会の中に住んでいませんが、彼女のように夜も昼も絶えず祈る事が出来ます。又、彼女のように、救いを待ち望む人に福音を述べ伝える事が出来ます。
又は、シメオンのようになる事が出来ます。神殿に行くように聖霊に動かされました。聖霊は私達が教会に行くように呼びかけます。ここでキリストと出会います。シメオンはイエス様を自分の腕に抱きました、私達はイエス様を心に抱きます。彼の預言は私達の為もです。イエス様が裁きをもって来ると言いました。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ」ました。律法と福音の言葉です。滅びと赦しの言葉です。彼の死が私達の心をも刺すべきです。十字架上で死ぬ時、私達がマリアの悲しみを分かち合います。又、3日目に復活するときのマリアの喜びをも分かち合います。
最後のコメント:シメオンの歌は、そのラテン語の題名で知られています、ヌンク・デミテス“いま出ます”と。聖餐式の後によく歌われています。聖なる聖餐式のパンの中で私達は神の救いを見ました。私達の為にととのえられました。救いの福音は全世界の為です。イスラエル人も異邦人も、あなたと私のためもです。それで、最後に、シメオンの歌を詠みます。
29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。
30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会