2023年12月10日 福音書 マルコ 1: 1~ 8 (新61), イザヤ 40: 1~11 (旧1123)
洗礼による心と人生の準備
聖書とは、神様の聖なる御言葉です。印刷した言葉や読まれた言葉によって聖霊は私達に語ります。それで、今日の福音書は、私達のためです。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
主が来られるので心を準備する必要があります。そしてどのようにそれが出来るか、バプテスマのヨハネは教えます。即ち、信仰と罪を赦す洗礼です。
ヨハネはイエス・キリストの来る事について話しました。しかし、旧約聖書の預言者イザヤには、その言葉のフーォカスは違いました。
イザヤ 40: 1~5 (旧1123)
1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。
イスラエルの国が戦争でまけました。イスラエルの民が奴隷としてバビロンに連れられました。預言者達が説明しました。それは、イスラエルの主なる神を無視して、偶像礼拝をしたからです。しかし、70年の罰の時間が終わりまして、罪が赦されていました。エルサレムの故郷に帰る時期になりました。主なる神様は彼らと共に行かれますので、その道は主なる神様の為に広い道になります。荒野を通りますが、捕囚(ほしゅう)から帰るユダヤ人にとっては、高速道路のようです。スムーズで、真直ぐで、登る坂道がない平な道です。これは救いです。すべての人々はこの救いの出来事を見て、主の栄光を見ます。主なる神様は約束の言葉を守ります。
その通りになりました。
バプテスマのヨハネは、荒野の中のヨルダン川にいました。主が来られると述べ伝えました。キリストが来ますので、イスラエルの人々が準備をしなければなりません。これは物質的な道路ではなくて、霊的な心と思いと人生です。ヨハネの言葉を聞く為にヨルダン川に行った人々は、実は、イスラエルの主なる神を本当に信じました。しかし、それなのに、心と思いと人生は、凸凹の道で、曲がっていて、迷いました。人生の道には、罪の壁、不信仰や誤った信仰や無知がありました。
ですから、主が来ますので、心の準備をする必要がありました。洗礼者ヨハネはそのやり方を教えました。信仰や罪を赦す洗礼によってです。心をきれいに洗い、不信仰を洗い流し、新しい人生は、溺れた後の復活のようです。このようにして、イエス・キリストが現れる時、イエスを受け入れます。神の国の良い知らせを聞く準備をしたからです。
その通りになりました。
そして、今度、聖霊は私達にも同じ事を語ります、即ち、主の来られるのを準備する事です。クリスマスの飾りと多くの準備によって、クリスマスのスピリットになります。しかし、スピリットは信仰ではありません。スピリットは悔い改めではありません。クリスマスのお祝いの準備は疲れます。イエス・キリストの来るのも疲れます。本当でしょう。自分の救い主としてイエス様を信じても、私たちの心と思いと人生は、凸凹の道で、曲がっていて、迷います。人生の道には、罪の壁、不信仰や誤った信仰や無知がありました。山を移動する事が出来るからし種ほどの信仰があっても、人生の道をまっすぐにするには、道路工事のブルドーザーが必要です。
私達の道は、イエス様の後について行かなければなりません。
- ろばに乗って優しい王様のようにエルサレムに入る時に彼の後に行きます。
- 十字架をかついて、神の犠牲の子羊のように、エルサレムを出る時に彼の後に行きます。
- お墓から甦る時に彼の後を行きます。
- ヨルダン川で洗礼を受ける時に彼の後に行きます。
私達も洗礼を受けるようにとバプテスマのヨハネは言います。“4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。”バプテスマは大切です。バプテスマとそのバプテスマをつかむ信仰は大切です。三位一体神の力です。父と子と精霊のみ名によって行われています。私達は自分を洗礼しません。文法的に言いますと、受け身です。「私は洗礼を受けた。」「洗礼された」と言いませんが、その意味です。三位一体の神の権利を受けて、牧師は私に洗礼を施しました。
ですから、キリストの来られる事の準備とは、洗礼です。信仰と罪を赦す洗礼です。心をきれいに洗い、不信仰を洗い流し、新しい人生は、溺れた後の復活のようです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師、沖縄ルーテル教会