イエス様は、12弟子達を福音を述べ伝える為に、イスラエルの町と村に送りました。このように教えました、マタイ10:7-11.「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8 病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。」

        この宣教の旅の為に、完全に神様に信頼しなけれなりません。お金や食べ物や温かい上着でさえも持ってはいけませんでした。又、福音を聞く人々のもてなしに頼って、その人は喜んで弟子達に必要な物をそなえます。もし弟子達が一つの村にもてなしの良い人を見つけられなければ、

「その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落として」(マタイ10:14)次の町に行きます。完全に安全な旅ではないでしょう。迫害があるでしょう。その時、次の「他の町へ逃げて行きなさい」(10:23)と言われました。

        福音のメッセージの為に、争いが起こります。言われました、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35 私は敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36 こうして、自分の家族の者が敵となる」と。(10:34-36).

        どうして福音が家族を分列させるでしょうか。現在もそうです。自分の家族の中、私達の教会の中にもそうです。最後の晩餐で、弟子達が一つになるように祈りました(ヨハネ17:21)。イエス様は羊飼いで、私達はその群れです(ヨハネ10:11)。イエス様はぶどうの木で私達はその枝です(ヨハネ15:5)。しかし、福音が持って来たのは、迫害をはじめ、憎しみ、分裂、偏狭、自己義、自己防衛、利己主義です。

       これを乗り越える方法が一つしかありません。それは、イエス・キリストの死と復活です。この世の罪を乗り越える方法は、罪の赦ししかありません。一番大きいなスカンダルとは、赦しでしょう。何故ならば、人は罪の赦しが欲しくないで、好きな事が出来る許可の許しです。迫害と憎しみと分裂などをする許可です。12人の弟子達のミッションとは、福音の赦しと和解と神の国を述べ伝える事でした。現代の教会にもその同じミッションがあります。そのミッションには妨害があっても、イエス様は 諦めてはいけない」と言われます。「隣の町に行きなさい。あそこで、あなたに冷たい水一杯をくれる人がいますよ」と。

        今日の福音書には、イエス様は次の勇気をつける言葉を言われました(マタイ10:40-42)。

  • 「あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

        この箇所の大切な言葉とは「受け入れる事」です。この一つの言葉には、いくつかの意味を同時に重なっています。おもてなしで客様を受け入れる事ですし、贈り物をもらって、それを受け取る事ですし、誰かの発表を受けて賛成する事ですし、又神様から掲示を受ける事です。

        12弟子の一人を受け入れる事は、外国の大使を受け入れる事のようです。即ち、弟子がイエス様のメッセージを話している事を認める事です。そして、イエス様が御自分を遣わした父なる神様のメッセージを話す事を認める事です。おもてなしは、そのメッセージを信じている事を表現する方法でしょう。

        「41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け」ます。預言者とは、福音を述べ伝える伝道師です。預言者が与える報いは何でしょうか。与える事が出来るのは、一つしかないでしょう。即ち、神の御言葉です。神の御言葉は素晴らしい宝です。それを受けて・信じる人の心と人生に喜びを与えます。赦しと救いの御言葉です。

        「正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」のです。その正しい人とは、信仰深くて忠実なキリスト信者です。自分の生活の中で、正しい生き方をして、正しい生き方の模範になります。そのような人のあたえる報いとは何でしょうか。この罪深い世の中で、どのようにクリスチャンとして生きる事が出来るかのレッソンを与える事でしょうか。御言葉を活かす方法の模範です。その報いは、私達も、神様に喜ばしい人生を送る時でしょう。

        「42はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」その冷たい水一杯をもらえる「小さな者」はだれでしょうか。普通の弟子です。力強い預言者や説教者ではなくても、完全な正しい成人でもなくても、キリストに忠実に従う人です。その冷たい水の一杯は、他の人から与えられた勇気を与える言葉や愛でしょう。このようにして、忠実に弟子として続く事が出来るでしょう。どの報いをその「小さな者」が与える事が出来るでしょうか。何もないかもしれません。しかし、イエス様は愛と信仰の報いを下さる事が出来ます。

        沖縄に住んで、暑い夏の日に、冷たい水の一杯の尊さが分かります。又、信者同士達に、「小さな者」達同士に、愛の言葉や助ける言葉や勇気をつける言葉を話して与える尊さが分かります。必ずその報いを受けます。洗礼を受ける時、イエス様は私達に、救いの冷たい水の一杯を下さいます。

        アーメン。

沖縄ルーテル教会 マイケル・ニアフッド牧師