1 + 1 + 1 = 1.  この数学の方式は聖なる三位一体を表します。数学的に言うと間違っています。論理的に言うと非論理的です。しかし、どのように新約聖書が神様を啓示しているかは正しいです:一つの神で3つのいかくで、三位一体です。数学的や論理的に間違っているように見ても正しい事ですので、それを「神秘」と呼びます。私達人間が説明する事が出来ないものですが、それを正しいと認めるのは、聖書がそのように教えるからです。これは信仰の事です。

        聖書の中には幾つかの神秘があります。一番大きい神秘の一つとは、イエス様が死んで3日目に甦られた事です。医学的に言うと不可能で、神秘です。どのように神様がそれをなさったか説明する事が出来ませんが、信仰によってそれが真理であると受け入れます。それより大きい神秘とは、イエス様の死は、私達の罪を赦す犠牲です。自分の目で見えないし、感じる事が出来ません。どのように罪を赦すか分かりません。奇跡です、神秘です。又、どのようにしてイエス様が聖餐式のパンと葡萄酒の中で、御自分の聖なる体と血として、臨在する事が出来るでしょうか。それはイエス様が言われたからです。「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。 この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:19-20)。その契約とは、救いの約束です。とにかく、もう神秘ではない事の一つとは、神様の愛の深さが測る事が出来ない事です。

        世の中には多くの神秘のようなものがあります。歴史学、考古学、医学、社会学、心理学、哲学、神学。神様は人間に与えた頭は、好奇心によって、その神秘を解決したいと思います。それで、科学者は病気の癒す方法を見つけたら、その人は神様から与えられた仕事をしています。隣人を愛する事です。しかし、壁にぶつかるリーサーチの時があり、もう進む事が出来ません。その神秘を解決する為に、より大きい望遠鏡やより速いコンピューターが必要で、又、昔の記録がもうないので進めません。しかし、すべての物を理解出来なくても、私達は神様の創造を楽しむ事が出来ます。自然の神秘を喜び、電気とエアコンの為に感謝して、現代的な技術で友達や家族とコンタクトを持つ事が出来ます。

        教会の信者達は聖書を勉強します。聖書は神様についての知識の唯一の信頼する事が出来る源です。しかし、ぶつかる壁は、神様は私達人間にすべての事を啓示しないからです。私達クリスチャンが祈る時や人生の意味を探す時、神様は私達にすべてを表わして下さらないと分かります。いらいらする時があります。神秘のただ中に信仰によって生きる事は、一方では怖いですが、他方では自由を与えます。何故ならば、神様がすべてを知り、神様は私達を大事にする事が分かるからです。

        旧約聖書のヨブ記の聖書日課を読みました。その書物の中で、ヨブと3人の友達が、どのように神様が人間を祝福するか罰するかについて論じ合います。何が正しいか彼等は決める事が出来ません。最後に神様は言われます。「私が大地を据えたとき/お前はどこにいたのか」と(38:4)。即ち、信仰を持ってすべてのものの為に神様を信頼する事です。人間は決して神様の神秘を理解する事が出来ません。しかし、それなのに、神様は人間に知恵を下さいます。創造を見て神様に感謝します。救いを見て信仰によってそれを信じます、隣人を見て愛の業で答えます。

        今日私が言いたいと思うポイントは、1 + 1 + 1 = 1 が信仰のつまずきの岩ではなくて、オリンピックの陸上選手がレースに良いスタートが出来るように足元に使うスターチング ブロックと言う物のようです。即ち、信仰のレースの出発の為にです。三位一体の神様の御名による洗礼によって始めます。洗礼は私達の罪を洗い流し、洗って、その時一回だけでなく、毎日神様に祈るたびごとに私達の罪を赦す神秘です。私達の日曜日の礼拝の最初に、その聖なる名前を呼び掛けて、私達は自分の洗礼を覚えて、自分がその聖なる神様の子供であると思い起こします。礼拝の最後に、三位一体の祝福は、私達が礼拝堂を出る時、洗礼を授けられ、贖われて愛された神様の子供達として出る事を思い起こします。言い換えますと、私達は神秘を説明する事よりも、その神秘によって生きる事です。神様の愛の神秘で、御自分の家族の為に私達のような罪人を含む事です。どうして神様は御自分の一人子を私達の為に死ぬ為にこの世に送って、信じるすべての人に永遠の命を下るかは神秘です。しかし、私達は神秘を説明する事よりも、その神秘によって生きる事です。自分の人生の一部です。自分自身の一部です。

        その神秘を自分の人生の一部にしましょう。即ち、キリスト信者達自身が神秘的な者になる事です。それで、他の人が理解する事が出来ない何かがクリスチャン達の人生にあるはずです。キリスト信者でない人には、キリスト信者のことが分からないはずです。神様に対する一番大きい神秘とは、神様の愛、憐れみと忍耐です。もし、キリスト信者が、その同じ愛、憐れみと忍耐を他の人に表しましたら、他の人が理解する事が出来ないでしょう。それは彼らの普通の生き方と振舞いではないからです。クリスチャンがない人にとって、愛は実に自己中心的なもののように、憐れみは弱さのように、忍耐が決断力のない事や罪を認める事のように見えます。

        クリスチャンは神秘のようになるべきと言うとき、クリスチャンが変人、奇人、不合理な者になりなさいと言っていません。それはただ変な事です。意味するのは、クリスチャンがノンクリスチャンと違うべきです。私達の足はしっかり地面についていますが、心は天に向かっています。又、天は私達の心の中にあります。それで、私達は神様の子供達として道を歩きます。聖なる三位一体や私達の洗礼は完全に神秘ですが、信仰によって私達に啓示されています。それは聖霊なる神様の働きです。

私達は神様の子供達として生きると、神の神秘がこの世に現されています。神様の愛と憐れみがこの世に来ます。それは畏敬です。すごいです。不思議な恐れと不思議な興奮です。

        世の中の一番神秘的な言葉、心を不思議な恐れで満たす言葉とは、神様の御名を述べ伝える言葉です。即ち、「父と子と聖霊の御名」です。

.アーメン。

                                                                                                                                                                                                      マイケル・ニアフッド、牧師
                                                                                                                                                                                                     沖縄ルーテル教会