今日はペンテコステの日です。その言葉の意味とは、“50番目の日”です。復活祭から数えます。本来、旧約聖書の中では、過ぎ越しの祭りの50日目でした。小麦の収穫の感謝祭でした。秋には、もう一つの感謝祭は「仮庵祭kariiosai」です。【忙しい収穫の時期、畑でテントなどを貼って、キャンプしました。イスラエル人が40年間荒野でテントの中で住んだ事を覚えました。】この2つの収穫の祭りと救いの祭りの過ぎ越し祭を守るように、モーセの律法に命じられています。それで、エルサレムから遠く離れて住むユダヤ人でさえも、この祭りの時期にエルサレムに登りました。ですから、使徒言行録2章で書かれているように、ペンテコステの日に、そのようなユダヤ人が多いでした。祭りに参加する事は、神の救いと恵みを祝う事でした。信仰告白のようです。ペンテコステの日に、多くのキリスト教会は堅信式を行います。その時、若い人は教会の会衆の前で自分の信仰を告白します。
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使徒言行録2章は、福音が世界のすべての人々の為であると記します。祭りの為にエルサレムに昇って来た人々はユダヤ人でした。あらゆる国に住みました。北から、南から、東から、西から来ました。昔の地中海世界のすべての所から来ました。その所に住む異邦人を表しました。このようにして、弟子達はイエス様の宣教命令を果たしました。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒1:11)。考えられるのは、その日にペトロの説教を聞いた人々は、その福音のメッセージを持って国に帰り、自分の町のシナゴーグの会場に福音を話したでしょう。
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聖霊はペンテコステの日に来られましたが、イスラエル人にとって、最初の聖霊の経験ではありませんでした。今日の旧約聖書の日課はモーセの時でした。聖霊は70人の長老達の上にとどまると、彼らは預言状態になりました。ペンテコステと違いますが、主なる神様が本当にこの70人がイスラエルの指導者として選ばれた印でした。私は、どのようにモーセはヨシュアに答えたか好きです。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と。旧約聖書の中には他の人も霊をもらいました。例えば、モーセ、ヨシュア、ヨセフ、士師記の数人の士師、サウロ、ダビデや、預言者イザヤ、エゼキエル,ミカなどです。聖霊はメッセージや幻を与えました。
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激しい風の音が家中に響きました。又、勉強した事がない外国語を話す音がありました。ペンテコステの日で弟子達が話した言葉は、現代の言われているペンテコステ派やカリズマ派の教会の異言と違います。聖パウロが第一コリント12章に書かれた異言と違います。使徒言行録2章では、本当の実際にある外国語です。聖パウロは「外国語xenoglossia」ではなくて、舌が自由に話す「異言glossolalia」と言います。それを聞く人が分からない音です。現代、世界中に福音を広げる為に、ペンテコステの日に弟子達にあった聖霊の力が必要です。実は、もしあなたが自分の国の中で自分の母国語で話していても、人々は、福音のメッセージをはっきり理解する事が必要です。聖霊が話す事が必要です。それで、頭や心はそれを聞いて、理解して、信じる事が出来ます。世界中には多くのいろいろの文化がありますが、すべての人々には救いの必要があります。イエス・キリストについてのメッセージはすべての人々の為です。ヨハネ3:16が言う通りです、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」それこそは、ペンテコステの日のメッセージです。
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ペンテコステの日は現代の教会の為の模範です。その日曜日の朝、弟子達は集まりました。祈ったり、宣教の働きを話したりしたでしょう。そして、その祈りの答えで、聖霊は風と炎と言葉を持って来られました。弟子達は「神の偉大な業を」語りました。そして、説教の中で、ペトロは、イエス様の死と復活と罪の赦しを語りました。その日、信じて洗礼を受けた人は3000人でした。そして「 彼らは、使徒の教え、相互sogoの交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」のです(2:42)。
ペンテコステの日を“教会の誕生日”と言います。その時から、教会は交わりでした。普通は日曜日の朝に集まります。祈ったり礼拝したりします。「神の偉大な業」を語ります。それは、礼拝の時、説教の中、聖書のクラスに、又、自分の人生の中でのイエス様を証します。説教はペトロのように、律法と福音、悔い改めと洗礼を語ります。共に「パンを裂きます。」聖餐式もコーヒー・タイムもです。聖霊は私達の上にとどまったので神に感謝します。信仰の炎。赦しと愛を語る風と息。父と子と聖霊のみ名による洗礼の洗い。
アーメン。
人知ではとうてい測り知る事の出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとは、キリスト・イエスにあってまもるように。アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会