復活節4主日、2023年4月30日 ヨハネ10:1-10
「ぼくは羊になりたい、メイ、メイ、メイ、メイ~」

教会学校の歌があります、「ぼくは羊になりたい、メイ、メイ、メイ、メイ~」  キリストは、ご自分が良い羊飼いであると言われましたので、私達クリスチャンが羊のようになるみたいです。羊は、自然として、群れを作ります。そして、指導者があると安全であるので、羊飼いに従って行きます。では、もし私達が羊のようにならなければなりませんでしたら、もし、自由に、自分の羊飼い、自分の指導者を選ぶ事が出来ましたら、どうなるでしょうか。私達は自民主義の社会に住んでいます。私達は自分の指導者を選ぶ権利があります。ただし、選挙の時、自分の好きな候補者が負けるかも知れないので、羊のように、私達のために選ばれたその指導者に従わなければなりません。しかし、もし、日々のことのために、自由に好きな羊飼いを選ぶ権利がありましたら、あなたは、どんな羊飼い、先生、指導者を選ぶでしょうか。

羊飼いの仕事を定義する詩篇23編を見たら良いでしょう。「主はわたしの羊飼い、  わたしには何も欠けることがない。」完全な幸せです!人間はそのような神様を欲しいと思うでしょう、即ち、私達の全部の祈りを答えて下さる全能の神様です。ある人にとって、その意味とは、自分が神様を支配して、神様は全部の欲しいものを与えなければならない事です。そうしなければ、欲しい物を下さらないと、群れから出て新しい羊飼いを探します。と言うのは、羊はそんなもので、よく群れから離れて迷ってしまいます。人々も、導きを探します。聖霊が、緑の野原や憩いの水のほとりの所に導くように祈ります。それは良いですが、もしあなたは草とサラダがきらいと思いましたら、たいくつになると、よりおいしい緑の牧場を探します。本当に欲しいと思う羊飼いとは、死の陰の谷を歩む時に、私達の手を握ってくださる者です。私達が死なないように、その羊飼いが私達を守る事です。もし死ぬ事が神様のみこころでしたら、天国の緑の牧場に連れて行って下さる事です。その鞭と杖が、羊を守るボーディガードの道具ですので、その武器が怖くありません。正義と復讐があるので、敵や競争相手の前で立つ事が出来ます。又、敵と和解したので、一緒に同じ食卓で座ることが出来ます。そして、このような羊飼いは、永遠に、溢れるほどに、恵みと慈しみと愛を祝福して下さいます。

しかし、私達は、本当に羊のようにならなければならないでしょうか。羊は、頭が悪く、くっさくて、自分で何も出来ない動物です。自分で、自分の囲いに出入りする事が出来ません。羊飼いや羊専門の犬による指導が必要です。私達人間は、自立したもので、自分の事を選択する事が出来るものはずです。21世紀の私達の個人性の夢があるので、羊のようなものになりたくないでしょう。

しかし、それはウソです。私達は羊であるのです。自立した個人がいません。私達はいつも自分より強いものの力によって支配されています。社会的にそうですし、霊的にも、経済的にも、物質的にもそうです。イエス様は、それらを偽の羊飼いと呼びます。そのようなものを全部「盗人であり、強盗である」と言われます。私達を導こうと思うものとは、この世の悪ですし、その誘惑、カルト、テルビのCM、いろいろのサギといじめをするものです。私達は、自分で自分の道を歩んでいると思うでしょうが、その他のものは、私達の為に選んだ道を導き、私達に与えると約束する利益を考えないで、自分達だけに利益を与えるでしょう。ですから、イエス様は、彼らを「盗人であり、強盗である」と言われました。

私達は彼らの声が聞こえます。その偶像は、幸せや自由のすばらしい約束を私達の前で見せます。私達はその盗人のすばらしい約束をじっと見ますので、自分がもう羊ではないように感じます。それで、まことの命へ導いてくださる者の声がもう聞こえません。しかし、イエス様は、私達が彼の声を知ると言われました。『10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。』その声を聞く事が出来なければ、もうイエス様のものではないでしょう。その盗人と強盗に従って、私達を愛する造り主を捨てるでしょう。そうでしたら、もう牧草がないでしょう。

その時、私達に声をかけるのは、イエス様です。彼は私達を知っています。私達はほかの羊飼いを見ても、他の誘惑や悪い影響を見ても、イエス様は私達に声をかけます。彼の声には、力があります。イエス様は声をかけますと、ラザロは甦りました。イエス様は話します。「罪人が聖人である」と言われますと、そのようになります。イエス様は、私達を滅びに宣告するために来られないで、救いを述べ伝えるために来られました。罪人に呼びかけます。政治家の演説のようや市場のセールマンの叫ぶ声と違います。愛とやさしさと力がある声です。迷ってしまった羊にかける言葉とは、赦し、恵み、群れに帰る事が出来る言葉です。私達はイエス様から離れても、彼は私達から離れません。「憩いの水のほとりに伴います。」洗礼を受ける時、それはイエス様の約束です。私達は彼のものになりますので、彼は私達を大事にします。イエス様は、神の小羊です。私達のために、死の影の谷をご自分の十字架を背負って通りました。彼は永遠の平和と赦しと愛の道を知っています。彼の声は、甦られた声です。ですから、命を与える力があります。

その生きている声を聞けば聞くほど、その声の響きや発音やイントネーションによって、神の約束を見分ける事が出来ます。その生きている声を聞けば聞くほど、盗人と強盗のウソを見分ける事が出来ます。イエス様の声を聞けば聞くほど、彼の声は、私達の心を誠の富で満たされます。私達の人生は、ラジオのように、イエス様のチャネルに合わせられています。私達の羊飼いの御言葉はメロディのように私達の心と思いの中にあります。偶像や偽者は、雑音のように聞こえますので、正しくないと分かります。キリストの生きている歌に比べますと、ほかのものの約束は、浅くてや、空っぽうのように見ます。

盗人と強盗は私達の魂を奪おうと思いますが、私達の救い主は、命、誠の命、豊かな命、永遠の命を私達の魂に溢れるほど注ぎます。私達は、彼の中に緑の牧場を見つけます。彼の中に、憩いの自由を見つけます。偶像にはもう力がありません。

羊は群れを作る動物であるので、私達の周りの羊は私達を見て、私達が主と共に出入れをすると見ますと、私達の後について来る可能性があります。私達の近くにいましたら、彼らも救いの御言葉が聞こえるでしょう。このような羊飼いがいましたら、羊になる事は、そんなに悪くないでしょう。「ぼくは羊になりたい、メイ、メイ、メイ、メイ~」
アーメン。