4.14 にニアフッド先生から、24 日の説教や証のお願いのメールが、あり、力不足で
はありますが、引き受けることになりました。

弟子たちに現れたイエスキリスト
今日はアリマタヤのヨセフの話からはじめます。
イエス・キリストの埋葬 マルコ 15 章 42~47 節 ルカ 23 章 50-56
アリマタヤ出身のヨセフは、有力な議員で善良な人、金持ちでイエス様の弟子でした
が、イエスの弟子であることを隠していました。、
勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出ました。
イエスの弟子であることを、勇敢にも公開しました。
ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。通常は死刑の後、2-3 日で亡くなって
いましたが。イエスは 9 時ころ処刑され、午後 3 時になくなりました。わずか 6 時間
でなくなったのです。いかにイエス様の苦しさが大きかったか、ということでしょう、
ピラトは百人隊⾧を呼び、イエスがすでに死んだのかと。百人隊⾧に確認してから、
ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡しました。
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして 没薬とアロエを混ぜ合わせたもの」を遺
体に塗りました、それは、遺体の腐臭(腐ったものの匂い)を消すためでしょう。
「香料といっしょに亜麻布でまいた」とあります。
岩を掘って造ったヨセフの準備してあった墓に葬りした、墓の入り口には石を転がし
ておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よ
く見ていた。
マグダラのマリヤは、日曜日の朝、墓に向かっていました、誰が墓石を転がしてくれ
るか心配しながら、墓についた時、墓石は転がされていました。
墓の中にイエスの死体がないことを知り、非常な驚きもって、弟子たちのところへ、
走った、報告を聞いた弟子は、ペテロとイエスの愛弟子ヨハネであった、弟子たちは、
マリヤの報告は、本当ではあるが、誰かがイエスの死体を盗んだと信じた
復活の予告を聞いていましたが、弟子たちは、復活を信じていませんでした。
復活の予告
マタイ 16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、⾧老、祭
司⾧、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっ
ている、と弟子たちに打ち明け始められた。
マルコ 9:31 人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する
「新しい時代の初めの日」です。イエスは、既にマグダラのマリヤばかりか少なくと
も他の二人の女たちに(ルカ 24:10)、また、エマオ途上のふたりの弟子と、ペテロとに、
ご自身を現しておられました(ルカ 24:13-34)。
復活の知らせは、弟子たちの間を駆け巡った結果、「その日の夕方」、弟子たちは一
つの場所に集まっていました。弟子たちはなお、「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあっ
た」
当時のユダヤ人の宗教指導者たちは、イエスの弟子たちがイエスの身体を盗み出して、
イエスが「死人の中からよみがえった」と民衆を「惑わす」ことになるのを恐れて、
ローマ総督ピラトにイエスの墓に番兵をつけてもらっていました(27:64,65 節)。
復活の朝、「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のように
なった」と記されています(同 28:4)。番兵たちは気を取り戻すと、墓を封印していた
石が取り除けられたことを報告したことでしょう。
その話を聞いたユダヤ人の宗教指導者は、イエスの弟子たちがイエスの身体を盗んだ
というように解釈したことでしょう。
イエスの弟子たちは、不安と怖さの中にいました。
ところがイエスは、締め切った戸を通り抜け、そんな弟子たちの真中に突然立って、
彼らの不信仰や臆病さを責める代わりに、「平安があなたがたにあるようにと言われま
した。恐れにとらわれて、「戸をしめて」いたにも関わらず、復活のイエスは入って
来ることができたというのです。それは、イエスが復活のからだに変えられていたか
らです。
イエスは、「その手とわき腹を彼らに示され」(20 節)ました。手には大きな釘の跡、
わき腹には手を差し入れられるほどの槍の穴がありました。本来、栄光のからだは、
「聖く傷のない」(エペソ 5:22)はずですが、不思議にも、主は敢えてその傷跡を残して
おられました。
弟子たちは、主を見て喜び」ました。
それは目の前にいるイエスが、真実に、十字架にかかられ、死の力に打ち勝たれた方
であることの何よりの証拠となったからです。
弟子たちは、恐れと、悲しみを取り去り、一切のものに打ち勝つ力を、霊の力によっ
てあたえられました。
復活の出来事は、奇跡の最大なるものであり、人間の理性には隠されおります。
簡単に理解できないかもしれないが、悲しみと恐怖の中にあった弟子たちが、
復活の主に会って平安と、力とを与えられたことは、ただ感謝です。
イエスは生存中に、伝道の使命を弟子たちに、与えられていましたが、いままた、弟
子たちに命令を与えられました。
この伝道の、最も大切なことは、 罪の許しにあります。

罪の許しのあるところに、救いがあり、永遠の命があります。
この救いの権限が、弟子たちにあたえられました。これからさき、権威をもって、伝
道することのできた原因は、主から与えられた大きな権限にありました。
弟子たちの権威は、地位と人格の偉大さのゆえではありません。むしろ、イエスを否
認し、十字架より離れ、ユダヤ人を恐れて、戸を閉ざしていた者たちでした。
弟子たちの権威は、イエスの恵みによるものであり、聖霊もあたえられたからです。
その時、イエスは、「彼らに息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」(22 節)と言われ
ました。これは、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を
吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(創世記 2:7)という創造のみわざ
を思い起こさせます。
彼らに息を吹きかけた、とは、神の霊が注がれたことを意味しています。
弟子たちは今、御霊によって新しく生まれ、再創造された者として、この地でイエス
の代理としての使命を果たすように召されたのです。
ところで、復活のイエスが弟子たちにご自身を現された時、トマスはその場にいませ
んでした。
弟子たちはトマスに、「私たちは主を見た」(25 節)と言いました。ところが彼は、も、
その仲間の証しを真っ向から拒絶しました。
彼は、「見る」だけでは不十分で、「私の指」を「差し入れ」てみなければ、また、主
の「わき腹」にも、「私の手を差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったの
です。
一週間後の日曜日、「弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいまし
た。
イエスはまた、「戸が閉じられていた」にも関わらず、入ることができ、彼らの中に
立って「平安があなたがたにあるように」と言われ(26 節)、ひとことも責めることな
くトマスに語りかけます。
イエスは、トマスに 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。あなた
の手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と優しく招きました(27 節)。主は、
「……差し入れてみなければ、決して信じません」という気持ちに寄り添われたので
す。
そして今、イエスはトマスに向かって、「信じない者にならないで、信じる者になり
なさい」と付け加えられました。イエスは徹底的にトマスに寄り添いながら、同時に、
見ずに信じるという信仰の回復を願われたのです。
- 4 -
これでトマスには十分でした。もう自分の指や手で傷跡の感触を感じる必要はありま
せん。彼が心の底で求めていたのは、自分ではどうしようもない心の闇を受け入れて
くれる愛だったのです。
トマスは、「私の主。私の神」と応答しました(28 節)。これこそ最高の信仰告白です。
彼は、自分の罪と不信仰のすべてがイエスに知られ、受け入れられていたことが分か
り、イエスご自身こそが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト 3:6)
であり、その方が「私の主。私の神」となったと告白したのです。
このトマスの信仰告白が、後の時代に、イエスは神であるということの最大の証拠の
ひとつとしてあげられるようになります。弟子たちの中で、救い難いほどに暗く、不
信仰であったトマスの告白こそが、三位一体の神の神秘を証しすることになったので
す。
イエスは、トマスの不信仰を用いながら、不信仰な私たちを導こうとしておられます。
そして、ここでは、不信仰な彼から「私の主、私の神」という信仰告白の模範を引き
出しました。その上で、イエスは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見
ずに信じる者は幸いです」(29 節)と言われました。
主は、彼を受け入れ、立ち直らせた後で、このような態度を取り続けることがないよ
うにと警告されたのです。なぜなら、トマス以降の人は、「見ずに信じる者」となら
なければならないからです。
トマスが、自分の罪と不信仰のすべてがイエスに知られ、受け入れられていたことが
分かり、イエスご自身こそが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト
3:6)であり、その方が「私の主。私の神」となったと告白したのです。
その上で、ヨハネの福音書の目的が、「イエスが神の子キリストであることを、あな
たがたが信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によっていのちを得るた
めである。 と書かれています。
今日私たちは、復活の主を見ることができなくても、心で信じることができます。
それは、弟子たちに現れた主が、平安と力とを与えられたように、私達にも与えられ
ます。
私にとってのキリストの復活は、どのような苦しみにも出口があること、どのような
暗闇の中にも光を見られること、すべての労苦が無駄にならないということの保証で
す(Ⅰコリント 15:58)。