マルコ7:32-37
7:32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

今日の福音書の日課で、イエス様は「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒して下さいました。この話に興味があるのは、私は年を取るにつれて耳が遠くなるのです。時々耳鳴りがあり、人が言う言葉が聞きづらいです。それで、この夏、ようやく、補聴器を買いました。それで人の話をよく聞こえる時があれば、うるさい音がただ大きくなる時もあります。

ですから今日の福音書には特別な興味があります。ここでイエス様は特別な方法で、耳が聞えず、口のきけない人を癒やしました。私の口も綺麗にきかない時もあります。日本語をよく言い間違います。また、話しが長くなってしまう時もあるでしょう。実は私達の社会には、同じような問題があると思います。

私達の耳が遠くなくても、他の人の言葉を聞かないし、又、人の言う事を無視します。自分にとって好きな話だけを聞きます。その上、多くのうそやうわさばなしや愚かなことや、人を傷をつける言葉を言います。第8の戒めを破る事です。


今日の聖書の人は耳が聞こえないので、イエス様は特別な手話を使いました。イエス様は「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで」。。。(これは祈りです。天を仰ぐ理由は、その人がこの癒やしが天国から来ると分かるためです。)。。。「深く息をつき」。。。(イエス様の心の深くから話された言葉で)。。。「その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、」。。。(アラム語で)。。。「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」のです。

イエス様が「エッファタ」と言わる前に、その人がそれを聞こえられませんでした。ですからその言葉の中には癒しの力がありました。イエス様が「エッファタ、開け」と言われた時に、その人にそれが聞こえました。イエス様の命令は、言われた瞬間に、その人を完全に直しました。もしかしたら、イエス様はこの言葉を彼の耳の中に叫んだでしょう。と言うのは、その癒しの言葉を聞いたのは、それ以前に耳が聞こえない人だけではなくて、町中の多くの人々がその言葉を聞いたみたいです。何故ならばその言葉は、耳が聞こえない人の耳を開きましたし、町の人々の耳をも、彼らの心をも開いたのでしょう。それで彼らはイエス様が、神様から来られた素晴らしい預言者だと分かりました。その人の舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになったと同じように、そこにいた人々の舌が解けました。彼らもはっきりと話しました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と。イエス様は彼らに、この事を誰にも言ってはいけませんと言われて、人々に口止めをされましたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめたのです。皆さんはすっかり驚きました。もしかしたら、その人の舌を癒やした時、その癒やしの力が「エッファタ」と聞いた人々の所に溢れて、皆さんが良い知らせを語る事を止める事が出来なかったのでしょう!

聴覚(ちょうかく)障害(しょうがい)は耳の病気ですが、神の御言葉を聞こうと思わない心の霊的な病気もあります。マルコ4:12で、イエス様はこの悩みについて話して、イザヤ6:9を引用します、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

古いことわざがあります。「見ようと思わない人ほど盲人がいない」と。このようにも言い換えます。「聞きたくない人ほど聴覚(ちょうかく)障害(しょうがい)者がいない」と。ものを聞きたくない時、人は耳を閉じます。時によってそれは良い事です。やかましい、うるさい大きな音や愚かな話や誘惑から自分を守る為です。しかし人間には知恵の言葉を聞こうと思わない頑固な性質があります。例えば、神様について、聖書の中の明確な神様の啓示の言葉よりも、自分の想像の方が好きです。又、自分の罪を告発する言葉を聞きたくありません。

いや、それよりひどいと思います。ただ聞きたくないよりも、聞く事が出来ません。罪の為に、やかましい音や雑音が多すぎて、神の御言葉が人の心に入る事が出来ません。例えば、男の子(又男の人)がテレビを見ている時、お母さんは「ご飯だよ、食卓に来なさい」と言っても、テレビの前でそのまま座って動きません。「ご飯だよ!聞きませんでしたか。」「いいえ、聞きませんでした。」本当に聞きませんでした。夢中になっていたので、本当に聞こえませんでした。罪も同じです。夢中になってしまって、福音が聞こえません。又、聞こえても人は福音を理解する事が出来ません。

イエス様がユダヤ人やピラトの前で裁かれた時、自分の為に何の弁明もしませんでした。「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イサヤ 53:7). その時点で何を話しても、イエス様を殺そうと思う人はそれを正しく聞かないでしょう。しかし、その後の十字架上からのイエス様の言葉には、私達がそれを聞く時、心を指しとうす力があります。

• 「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)。
• 「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)。
• 「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。
• 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26―27)。
• 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。
• 「すべてが終った(口語)成し遂げられた(新共同訳)」(ヨハネ19:30)。
• 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。

この十字架上の言葉は赦し、愛と救いを語ります。神様はイエス様に対して耳の聞こえない者ではありませんでした。イエス様の叫びを聞き入れました。イエス様は「すべてが終った」と言われた時、救いの働きが終わったと意味しました。私達の罪が赦されていました。そして、3日目に、神様は「エッファタ、開け」と言われて、お墓が開かれました。

その福音の言葉を聞いた私達は、今度その同じ福音の言葉を話します。私達の言葉は賛美と感謝で満たされています。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と私達も言います。そして、これは旧約聖書の預言の成就です。イザヤ35:5-6、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」

今日の福音書の中では、良い友達は耳の聞こえない友をイエス様の所に連れてきました。ですから、私達クリスチャンは病気や苦しんでいる友達や家族の為に祈る事は当たり前です。私達の舌が解かれているので、自然に他の人の為に祈ります。特に、心の中で神様の御言葉をまだ聞いた事がない人の為です。神様は私達の祈りを聞き入れて、御自分の御言葉を話して下さいます。愛と癒やしと救いの言葉です。福音書の日課の人々が言った通りです。「この方のなさった事はすべて、すばらしいです。」

アーメン。
マイケル・ニアフッド
沖縄ルーテル教会牧師