人間の性質の一部は、自分が一番になるように、プライドを持つ事か出来るように、あこがれます。聖書によりますと、人間の最初のする事とは、動物に名前を与える事です。その第二にする事とは、自分が優れている者になるように、禁じられた果物を食べる罪です。それによって、善悪を知って、自分が神様のように成る事です。知識によって力を得て、自分が素晴らしくなります:これはすべての罪の要約です。すべての罪は神様と同じようになることへのあこがれです。善悪の知識があれば、他の人より自分が偉くなり、神様のように、他の人を支配する事が出来ます。言われている「死に至る7つの罪」があります。そのリストの一番最初の罪とは、プライドです。プライドは自分をまず第一にします。自分を一番にしますので、他の人より自分がまず第一になりますので、すべての十戒を破ってしまいます。第一、第二、第三の戒めを破って、自分が主なる神様よりも大事にする事です。第4の戒めを破って、両親のような本当に自分 より偉い人をうやまわない事です。第5は、自分を大事にして、自分にとって、邪魔する他の人を殺したり、いじめたりします。第6は、実際に自分も他の人をも性的に恥ずかしめます。第7は、他の人の誇りを奪い取る事によってその人を弱くします。第8は、嘘を言ったり、人をだましたりする事は、偽のプライド、偽の偉さです。第9と第10は、他の人のお金や物をうばって、他の人の物によって自分を富ませる、自分を高くする行為です。
アダムはりんごを食べる事によって知識を得たかも知れませんが、悪魔の嘘とは、その知識によって人が神様のように成る事です。実は、人は神様のように成らなかったのです。目が開けると、自分の罪と犯行ばかりが見えたのです。何故ならば、命を創造する力、生命を守る力を得られませんでした。かえって、罪が堕落と死に至る道を開きました。私達の罪と犯行は同じです。私達の目が開かれて、自分の罪が自分を殺す事を見ます。それで、聖パウロが書いた言葉が正しいと分かってきます、ローマ6:23「罪が支払う報酬は死です。」又、ローマ3:10、「次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない』」と。プライドの反対は、けんそんや恥です。
宇宙の一番偉い者である全能の神様には、プライドや自慢する権利があるでしょう。しかし、神様は人間のあこがれを理解します。本当の偉さが何であるか分かります。それで愚かな人間を殺すプライドから救い出す為に、御自分の御子イエス・キリストを使わして下さいました。イエス様は人間の為に一番大きな事をする為に、神様の一番低い創造物になりました。御自分の上に罪を取って十字架の上で死にました。キリストのけんそんと恥は、私達のプライドと罪の為でした。しかし、キリストの死と復活によって、私達のプライドの罪が赦されました。
人間の性質でプライドが自然なあこがれのようなものでしたら、けんそんは自然なものではありません。イエス様は弟子達に本当のけんそんと、本当の偉さを教えなければなりませんでした。マルコ9:35-37、「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』小さい子供は、他の人の助けがなければ、生きる事が出来ません。子供は社会的に一番弱い者です。私達が子供を助ける時、私達は一番弱い者に仕えます。これこそは謙遜(けんそん)です。しかしイエス様は、それが人間の出来る一番偉い事であると言われます。社会的に一番低い者 - - - 低いと言っても、人間性が低いや社会的な地位が低いと意味しません。その人は弱いです、困っています。体が不自由です。ホームレス、家がない、金がない、家族と友達がいない、恐れている人 - - - そのような人を助ける時、私達は一番偉い事をします。このようにして私達は神様のように成るでしょう、この世の造り主と助け主のようです。それは、善悪を知る木の実を食べたからではなくて、十字架の木の赦しをいただいたからです。
自分のけんそんに誇りを持っているキリスト信者がいます。「僕は教会のためによく働きますよ。」「僕は週2回ハンディキャップを持っている人を助けますよ。」「あそうですか?僕は週3回貧しい子供の世話をしますよ。」人はその良い働きをするので嬉しい事です。しかし、皆さんに分かるように、そのような良い働きによって、私達が救いを得る事ではありません。十字架上のイエス様の働きのみが私達を救う事が出来ます。自慢する事に気をつけましょう。それは聖書の創世記の中に最初に記録された罪です。他のクリスチャンが、あなたのようにけんそんの奉仕の業をする機会がなければ、その人の良心が傷つくかもしれません。それで、自分のけんそんについて、威張らないで下さい。自分のけんそんについても、謙遜な気持ちを持つ方が良いでしょう。チャリティーに寄付する時、イエス様は「右手がする事を左手に教えてはいけない」(マタイ6:3)と言われました。神様の御前で、私達皆が罪人で、神様から何もいただく権利がないと覚えましょう。ですから、聖ヤコブは書きました。ヤコブ4:10、「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」
最後に、一つの奇麗な聖句を読んで終わりましょう、フィリピ2:5-11。
「互いにこのことを心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。
キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、『イエス・キリストは主である』」と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会