福音書  ヨハネ1:43~51 (新165)

43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

*********

ヨハネ1:48、ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。

クリスマス・イブの礼拝は合同礼拝でした。説教の時、一つの文節を英語で話して、すぐに日本語で同じ文節を話しました。ずっと説教の終わりまでにそのように話しました。礼拝後、会員の一人は私に言いました、「牧師先生は、英語からすぐ日本語に変換(へんかん)する事が出来て、感心します」と。私は答えました、「統合 失調 症[とうごう しっちょう しょう]ならば、簡単です」と。分裂した人格の人には、一つの体に2つの心や2つの人格があるようです。冗談のように、自分が統合 失調 症で、英語の人格と日本語の人格があると言いました。又は、老人性の認知症の人ように、同じ事を何度も言う人がいるでしょう。もしかしたら、私は同じ事を再び言って、二回目は日本語で言うでしょうか。

でもね、私がそのようになった理由とは、自分がルーテル教会のクリスチャンであるからかも知れません。ルーテル教会は次の表現をよく使います:「律法と福音」、同時に罪人と聖徒」、又、小教理問答書には、マルチン・ルターは、十戒を説明する時、各々(おのおの)の戒めの説明にこのように言います:「私達は、神を畏れ、愛さなければなりません。」同時に2つの反対の事をするべきです。例えば、第一、第5の戒め、と十戒の戒めの結びを読みましょう。

マルティン・ルター「小教理問答書」より

第一のいましめ

あなたは、わたしのほかになにものをも神としてはならない(出エジプト20.3)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、何ものよりも、神を畏れ、愛し、信頼しなければなりません。

 

第五のいましめ

あなたは、殺してはならない(出エジプト20.13)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。それで、わたしたちは、隣人のからだを傷つけたり、苦しめたりしないで、むしろあらゆる困難の場合に隣人を助け、励ますのです。

 

十戒の結び

問 神は、これらすべての戒めについて、何と言われますか?

答 神は次のように言われます。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」

問 これは、どんな意味ですか?

答 神は、これらの戒めに背くすべての人を裁くと警告なさいます。それゆえ、私たちは神の怒りの前におそれおののいて、これらの戒めにそむいてはなりません。しかし、神はこれらの戒めを守るすべての人々に、恵みと幸いを約束されます。それゆえ、私たちもまた、神を愛し、信頼し、神の戒めに従って喜んで行動すべきです。

恐れとは、もし私達がその戒めを守らなければ、神様が私達を罰するので、恐れながら、その戒めを守ります。愛とは、神様を愛するので、喜んでその戒めを守ります。もし私の母が、僕がしたくない事をしなさいと言いましたら、お尻をたたかれたくないので、その事をしました。しかし、同時に、母を愛したので、母を喜ばす為にその事をしました。私は、何でもかんでも、質問します。私はロボトではありません。例えば、どうして止まれサインの所で車を止めるでしょうか。どうしてスピードを書いている通りに走らせますか。あなたが私と違うでしょうが、道路のかどの向こうで、交通のお巡りさんが待っていて、すぐ私に交通違反切符をあげます。又、スピード違反の車をチェックする為に、ネズミとりのレーダーがあるかも知れませんので、スピード制限を守ります。同時に、隣人を愛するので、事故を起こして人を「傷つけたり、苦しめたり」したくないので、交通のルールを守ります。私の頭の中で、ルーテル教会の律法と福音が働いているのでしょうか。それとも、心の中の罪悪感でしょうか。

これらの事を感がさせたのは、今日の福音書のテキストを呼んだ後です。

『47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。』同時に罪人と聖徒」。自分が罪人であると分かります。自分が偽りのないナタナエルのようではないと分かります.自分には欠点があり、その欠点を隠したいと思います。他の人が自分の問題を見て欲しくないし、神様もそれを見て欲しくありません。同じように、交通の警察官に私の車のスピードを見せたくありません。実は、私は神様を恐れます。実は、神様から身を隠す事が出来ません。自分のいちじくの木の影の中にいましても、イエス様の目から私を隠す事が出来ません。

しかし、同時に、イエス様の言葉は、私に純粋な慰めと喜びを与えます。いちじくの木の下にいる私を本当に見るからです。私の罪を見ますが、その罪の原因をも見ます。助けと赦しが必要と見ます。その木の下に、寂しい時、危ない時、病気のときにも見ます。又、私の愛する人々をも見ますので、彼らにも助けと慰めを与える事が出来ます。

クリスチャンのダイナミックがあります。聖霊の働きです。恐れがあり、愛があります。罪の為の神の怒りがあり、その罪を赦す神の愛があります。

49ナタナエルは信じました。答えました。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

私達を信じさせる事を見ましたか。何だったでしょうか。神の天使を見たでしょうか。クリスマスの天使、空っぽの墓での天使、昇天した時の天使もいました。いちじくの木ではないですが、十字架の木の上にいるイエス様を見ます。そこで罪に対する神の恐ろしい怒りをみます。そこでその罪を赦す神の愛をも見ます。ですから、自分の罪の罪悪感があっても、イエス様が自分を見るので、嬉しいです。神の愛は神の怒りを制服します。その愛が私達を赦します。

私は統合 失調 症[とうごう しっちょう しょう]ではないでしょう。まだ完全に老人性の認知症のように、同じ事を何度も言う人ではないでしょう。しかし、ナタナエルと共に、何回も言いたいと思います。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 イエス様、あなたは神の子です。あなたは私の王です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会