2026年7月12日、聖霊降臨後第7主日   マタイ 13: 1~ 9 & 18~23  (新24)

私達の心と人生に蒔かれた神の御言葉

 *******************

福音書  マタイ 13: 1~ 9&18~23 (新24)

13: 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 9耳のある者は聞きなさい。」

18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

私達の心と人生に蒔かれた神の御言葉

        イエス様は、「種をまく人」の例えを話しました。そして、イエス様はそれを説明しました。要約しますと、神の御言葉をすべての人々に述べ伝えなければなりません。人がそれを信じなくても、受け入れなくても、述べ伝えなければなりません。ある人には、それを聞いたり、知ったり、信じたりするチャンスが決してありません。ある人は、最初に喜んで信じますが、人生の問題の為に、信仰を失います。そして、ある人は神の御言葉を信じて、それを活かしますので、祝福になります。

       この例え話が私達に何を教えるでしょうか。一つは、神の御言葉がすべての人々に延べ伝える必要がある事です。それを信じる事が出来ない人にも、信じようと思わない人にもです。その良い土地はどこにあるか、私達には分かりません。信仰を与えるのは聖霊です、私達ではありません。

       多くの教会の伝道プログラムがあります。あるのは、その良い土地を探します。そこで簡単に改心する人がいるでしょうか。あるプログラムは、わざわざ、難しい石だらけ土地、野草や茨が多い土地を選びます。そこにも、福音を告げる必要があるからです。

       そのような所で、硬い石が多い土を耕す事が出来るでしょうか。野草と茨を抜き出せるでしょうか。そのようにして、人々を手伝う事が出来るでしょうか。困難、迫害を受ける時、世の災wazuwaい,思い煩wazuraい、罪や富の誘惑がある人です。

       教会の中では、教育と信仰の成長が大切ですが、皆が違います。ですから、誰がより良い信者でしょうか、誰がより良いクリスチャンでしょうか、誰が教会でよく働くでしょうか、誰の愛と心が大きいか、心配しなくてもよいです。30,60,100倍の人がいるからです。

        でも、出かけて行って良い土地を探す前に、自分の心と人生の土を調べましょう。たまに、私達の心と人生が変わるからでしょう。

        ある時、私達はよく働くキリスト信者です。聖霊から与えられたタレントや贈り物によって、30、60、100%でしょう。

       ある時、その人の足に固く踏まれた道のようです。御言葉を受けるいれる事が出来ない、受け入れたくない時があります。自分の罪深い心は固いです。自分の罪深い心はかたくなで神の御言葉の裁きを聞きたくありません。聞きたいのは、きれいな、やさしい、赦しの言葉です。神様が自分の祈りに答える時、うれしいです。困った時に助けて、人生を祝福する時にうれしいです。その時、御言葉を喜んで聞き入れます。

       しかし、他の時、人生の問題、災い、誘惑によって覆われています。神様の助けを見ない時、失望になります。疲れます。もう、あきらめようか、と思います。

         自分の心がその石だらけの畑のようで、自分の中で、御言葉が根を下ろすでしょうか。自分を変えようとしても、自分の力によって、自分自身を変える事が出来ません。罪に捉toraえられて、つかまれて、奴隷のように、自分自身を自分で解放する事が出来ません。自分が無力です。神様の助けがなければ、枯れはててしまった荒れ野のようになります。

       しかし、良い羊飼いであるイエス様は、良い種まき人です。御言葉の種をまきます。十字架をまきます。そして、彼の十字架上で殺された体がお墓にまかれました。彼の甦られた体が命を与えます。罪の赦しが、私達の固い心から、罪の石を抜きとり捨てます。聖霊の力によって、私達が罪の野草と茨より強くなります。

        自分の信仰の戦いに、自分は独りではいません。先週の福音書の日課で、イエス様はこのように言われました、マタイ11書28-30節です。「28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

       軛とは2頭の牛を互いにつなぐ板です。それで、2頭の力を合わせて、鋤や重い重荷を引っ張る事が出来ます。私達がイエス様につながれている時、二人で一緒に働きます。救いの為に一緒に働かないで、それがイエス様一人での働きです。一人で十字架を背負ったからです。

しかし、私達の毎日の人生の中で、イエス様が私達と共に引っ張りますが、実は、イエス様の方が私達より強く引っ張ります。二人で、心と人生の石だらけの土地を耕tagaします。その鋤sukiとは、祈りであり、信仰であり、また、聖書の聖句、讃美歌や式文の歌です。信者の交わりや聖餐式や洗礼です。預言者イザヤ2:4のように、剣tsurugiを打ち直して鋤とする愛です。(「彼らは剣を打ち直して鋤sukiとし/槍を打ち直して鎌kamaと」)

       聖霊は私達の心と人生の中に、神の御言葉を植えて成長をさせて下さいます。 

        アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会