『キリスト者の自由』の信仰

使徒書 ローマ 7:113

7:1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。

 

使徒パウロは次のように記しています。「ローマの信徒への手紙7章4節から、

7:4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

つまり、私たちは律法から解放されており、律法を守る義務はないということです。律法は罪と死をもたらすものです。しかし、私たちは律法に対して死に、今は聖霊によって生きています。

ローマの信徒への手紙7章に関する優れた解説書として、マルティン・ルターが1520年に著した小冊子『キリスト者の自由』があります。先週、定期健診で医師の診察を待っている間に、この本を読み返す機会がありました。ですから、今日の説教は一種の読書感想文のようなものになりますが、これが皆さんの心と人生にイエス・キリストの福音をもたらすものとなるよう祈っています。

ルターはこの小冊子を、ローマ教皇レオ10世への公開書簡として執筆しました。(ちなみに、2026年時点でのローマ教皇はレオ14世です。)その主題は、使徒パウロがローマの信徒への手紙7章で述べている通り、私たちは行いによってではなく、信仰のみによって救われるということです。ルターはこれを「自由」であると同時に「束縛」でもあると表現しています。なぜなら、私たちは律法の束縛からは解放されましたが、愛によって結ばれている(愛に縛られている)からです。ルターはこの公開書簡の続く40ページにわたり、約20通りの異なる方法でこれを説明しています。しかし、彼は冒頭でその結論を述べています。それらの言葉は有名です。

「キリスト者はすべてのものから完全に自由な主人であり、何ものにも従属しない。」

「キリスト者はすべてのものに完全に奉仕する僕(しもべ)であり、すべてのものに従属する。」

これらの表現は矛盾しているように見えますが、ルターは同じことを語っている使徒パウロの言葉を引用しているのです。

コリント人への手紙第一 9章19節 「9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」

ローマ人への手紙 13章8節 「8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

ピリピ人への手紙 2章6-7節 「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

ルターは、私たちが救われるのは律法を守ることによってではなく、信仰によってであると繰り返し強調しています。律法は私たちに罪を自覚させます。私たちは律法を完全に守ることはできません。もし律法を守ることで救いを獲得できるのなら、イエスが私たちの罪を赦すために十字架で死ぬ必要はなかったはずです。ですから、ルターによれば、律法を守ることで救いを得ようとすることは、十字架上でのイエスの御業を無視することであり、イエスの御業を拒絶することなのです。それは不信仰な行いであり、救いから遠ざかることにつながります。しかし、信仰はイエス・キリストの御業を受け入れます。イエスこそが救い主だからです。

イエスにあって生きているとき、私たちは罪に対して死んだ者となります。赦されているがゆえに、罪は私たちを支配せず、したがって律法も私たちを支配しません。私たちは自由です。私たちはモーセの律法や十戒、その他の規定から解放されています。ルターは言いました。「キリスト者はすべてのものに対して完全に自由な主人であり、何ものにも従属しない。」

そこでこう問うことができるでしょう。私たちは政府の法や交通法規、社会的な慣習からも自由なのでしょうか? あるいは、善い行いによって救われるわけではないとしても、やはり善い行いをしなければならないのでしょうか? ルターは言いました。「キリスト者はすべてのものに対して完全に義務を負う僕(しもべ)であり、すべての人に従属する。」 ルターはこう記しています。「善い行いが人を善くするのではなく、善い人が善い行いをするのである。」 彼はイエスの言葉を引用しています。「良い木が悪い実を結ぶことはできず、悪い木が良い実を結ぶこともできない」〔マタイ7:18〕。ルターは、腕の良い大工は良い家を建てると言います。木も、大工も、そしてキリスト者も、何かを生み出すものです。信じる者は信仰を持っています。そしてその信仰が彼を義とします。だからこそ、彼の行いは善いものとなるのです。

ルターはこう記しています。「キリスト者は救われるためにいかなる行いも律法も必要としない。なぜなら、信仰によってあらゆる律法から解放され、純粋な自由から、自発的にすべてのことを行うからである。彼は利益も救いも求めない。すでにすべてのものに満ち足りており、神の恵みによって救われているからであり、信仰においてただ神を喜ばせることだけを求めているからである。」(361ページ)

** これは私たちにとって何を意味するのでしょうか? **

第一に、もし私たちがイエス・キリストを救い主と信じているなら、私たちは自分の救いを確信することができます。私たちは死も、悪魔も、永遠の滅びも恐れません。私たちは自由なのです。十戒の一つを破ったとしても、思い悩む必要はありません。「ほかの神々を拝んではならない」という第一の戒めさえ守っていれば、すべての戒めを守ったことになるからです。私たちの信仰は、ヨハネによる福音書3章16節の単純な約束にしっかりと結びついています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これこそが、私たちを自由にする信仰なのです。

第二に、天国に行くために律法を守る必要はありません。律法は私たちの人生を支配してはいないのです。しかし、善い行いをするという義務は、善い行いをするという自由へと変わります。私たちはそれらを行わなければならないのではなく、行うことができるのです。世間は「敵を憎め」と言いますが、私たちはそれを無視して敵を愛することができます。Yurusarete iru?  信仰によって、私たちはあらゆる律法から解放され、純粋な自由の中からすべてのことを自由に行うのです。私たちは愛されるために他人を愛するのではありません。報いを得るために慈善活動をするのでもありません。警察に捕まらないために交通規則を守るのではなく、他のドライバーを守るために安全運転をするのです。それこそが愛というものです。だからこそルターは言いました。「キリスト者は、すべての人の完全な僕(しもべ)であり、すべての人に仕える者である」と。

こうして、信仰によって、私たちキリスト者はキリストに似た者となります。キリストは宇宙の自由な主(あるじ)であられますが、私たちのために十字架で死ぬ「僕」となられました。それこそが、純粋な自由の中で与えられた純粋な愛なのです。キリストは私たちを自由にしてくださったのです。ハレルヤ。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会