ヨハネ20:19–31
「信じてイエスの名により命を受けるためである」
ヨハネによる福音書はこのように始めます:「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この箇所では、「言」と言う言葉は「イエス・キリスト」と意味します。この箇所は、イエス・キリストが永遠の神であると伝えます。
今日の福音書の日課で、ヨハネ20:28で、トマスはイエス様の手とわき腹の傷跡を見ます。このお方は本当に死から復活したイエス様であると確信をもって、告白します、「わたしの主、わたしの神よ」と言います。
ヨハネによる福音書を通して、第一章から第20章まで、イエス様が神であるしるしが沢山あります。例えば、洗礼を受ける時、聖霊は彼の上に下ります。又、多くの奇蹟のしるしもあります:水を葡萄酒に変える時、多くの人を癒します、目が見えない人に視力を与えます、5千人を食べさせます、海の上を歩きます、ラザロを甦らせます。ご自分が苦しみを受けて死んで甦る事を予言しました。そして、もちろん、本当に甦られました。トマスはこの全部を知りました。そして、今度、イエス様が神であると確信をもって言います、「わたしの主、わたしの神よ」と。
しかし、イエス様が神であると知る事だけではいけません。福音書の中の話に、悪霊どもも、イエス様が「いと高き神の子」であると知ります(マルコ5:6‐8)。又、手紙の中で、ヤコブは言います、2:19、「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」又、イエス様が復活したと知る事だけでは足りません。お墓にいた番兵達もそれを知りました。歴史に残っています。
信じて必要なものは何であるか、ヨハネ20章の最後に教えられています。このように書かれています:(20:30-31)「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
イエス様はメシアである、即ち、キリストであると信じる事が必要です。「キリスト」は「救い主」と意味します。それで、イエス様は僕の救い主であると言います。僕の罪から僕を救い出す為に死んで復活して下さいました。トマスの言葉を借りて、“イエス様は僕の主、僕の神、僕の救い主です。”
甦られた主が弟子達に現われた時、言われました、(ヨハネ20:21-23)『「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』と。
罪の赦しのメッセージです。それはキリストの死と復活の祝福された結果です。弟子達が遣わされたのは、罪の赦しを伝えて、罪を赦す為です。赦しはキリストの働きでしたし、キリスト信者達の働きでもあります。
イエス様が救い主のキリストであると信じる事とは、自分の罪が赦されていると信じる事です。世の罪だけではなくて、僕の罪こそが赦されていると信じる事です。その平和と慰めを、イエス様が弟子達に吹きかけました。
ヤコブは書きました、2:19、「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」聖なる神の前でおののきます。自分の悪の罪を知るからです。聖なる神様のみ前に、罪人は神の怒りを恐れます。自分の罪を知って告白する時、私達は恐れます。自分の罪がイエス様の苦しみと死の原因gen’inであると分かります。それで恐れておののきます。
しかし、イエス様はキリストであり、私達を罪から救う救い主であると信じる時、自分の罪が赦されていると信じます。それは復活した主の平和です。安心と慰めと平安を与えます。信仰は、恐れを確信と力に変えます。信仰は聖ヨハネの言葉を信頼します、即ち、20:31、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
これは復活祭のメッセージです。この福音のメッセージを信じて、延べ伝えて、それによって生きるのです。キリストであるイエス様は、私達の個人的な罪を赦して、イエスの名により命を下さいました。
ですから、トマスと共に告白します:「私の主、私の神、私の救い主よ」。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会