主に招かれた
福音書 マタイ9:9-13 (新15)
9:9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所(しゅうぜいじょ)に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人(ちょうぜいにん)や罪人も大勢(おおぜい)やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫(じょうぶ)な人ではなく病人(びょうにん)である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招く(まねく)ためである。」
マタイ9:9イエス様は、「マタイという人が収税所(しゅうぜいじょ)に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
もしあなたが自分の事務所や教室や家の庭に座っていて、イエス様が通りかかって、「私の後に従いなさい」と呼ばれましたら、あなたはその通りにしますか。出来るでしょうか。するべきでしょうか。それとも、もう既にしたでしょうか。これからするつもりですか。タイミングが大事でしょう。例えば、イエス様が僕に向かって「日本でVYMの青年宣教の為に、私に従いなさい」と言われた時、行くように決める事はすごく簡単でした。神学大学を卒業して、まだ仕事がなかったので、面白そうでした。捨てる物が少ないでした。良い値段で車を売った後で、すごく自由な気持で、日本に来る準備が出来ました。
しかし、今日、イエス様が僕に向かって、「福音宣教の為にアフリカやフィリッピンまでに私に従いなさい」と言われましたら、50年前の熱心がないかも知れません。今の教会での仕事が好きですし、家内がどう思うか分からないし、その上、そのような国に行くのが危ないからです。アフリカやフィリッピンのような国で働く宣教師の命が安全ではありません。勿論、イエス様に呼ばれている事は、決して安全ではありません。使徒ヨハネとユダ以外に、あとの弟子達皆が信仰の為に殉教者として殺されました。ですから、僕の為に、弁解のうちがないでしょう。
イエス様がマタイが弟子になるように呼んだ時の方法と現代の私達を呼ぶ時の方法が違います。先ず、マタイはイエス様の弟子達と使徒になりました。フールタイムの仕事でした。又、文字通りに、イエス様のうしろに、イエス様が歩く道を歩きました。私達がイエス様に従う時、イエス様の模範に従って、神様や隣人を愛したりします。マタイはフールタイムの伝道師になって、私達も福音によって生きるフールタイムのクリスチャンになりますが、皆は給料をもらうフールタイムの教会の職員にならないかも知れません。洗礼によって、イエス様は私達が彼に従うように呼びます。マタイが捨てた物と持って行った物は、私達が捨てる物と持って行く物が違うかも知れません。マタイは古い仕事を捨てて、弟子になりました。しかし、逆に、私達が、今の仕事の場所で主に仕えるように呼ばれているかも知れません。
魚を取るペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネ達を弟子にした時、彼らは船と網を捨てましたが、「人間をとる漁師にしよう」とイエス様は言われました。徴税人であるマタイの場合には、マタイはその取税所を後にしましたが、その時から、天国の宝物倉(たからものくら)の為に魂を納めました。又、筆をもって行きました。税金の記録の為にではなくて、イエス様の生涯を記録して、「マタイによる福音書」を書く為でした。言い換えますと、弟子達は自分の訓練(くんれん)や人生の経験を捨てませんでした。イエス様はそのものを御国の為に使うからです。
同じように、イエス様はあなたと私を呼びます。私達一人一人には、御国の為に利用する才能(さいのう)やタレントがあります。皆さんが違いますので、私達はそれぞれ、それをイエス様の為に使う事が出来ます。そのようにして、聖霊は私達によって、いろいろの人々に神様の愛と福音を与えます。イエス様があなたに向かって「私に従いなさい」と言われる時、すべてを後ろにして、完全に新しい人生を始まるように意味しないかも知れません。あなたが今いる所で、与えられたタレントを使う事の可能性があります。人間を取る漁師や魂を納める人ではなくて、福音を教える教師、魂の整備(せいび)をするサービスマン、等。
あなたは、何かの特別な事の為に呼ばれている事を感じないかも知れませんが、誰も言う事が出来ないのは、「もしイエス様が僕を呼びましたら、すべてを捨て、従って彼の為に働きたいと思いますが、今、ここにいまして、キリストの為に何の働きも出来ない」と言う事です。イエス様の時代に、多くの人々が彼を信じましたが、12人しか弟子達になりませんでしたし、ある時、特別の伝道旅行の為に、70人しか呼ばれていませんでした。他の信者達は、自分がいる所でキリスト信者でした。例えば、一つのクリスチャンのポースターがあります。ポースターの絵は、鉢植えの植物です。綺麗な花を咲かせます。そこに書かれているのは、「植えられた場所で咲きなさい。」即ち、あなたが今いる所は、神様の為に働く為に神様から与えられた場所です。それはあなたの咲く所です。
しかし、あなたがたの内に、誰かがマタイと同じような呼び掛けがあるかも知れません。もしかしたら、聖霊はあなたが特別な宣教の働きをするように望んでいるでしょうか。イエス様があなたに「私に従いなさい」と言われる時に、特別な働きを考えているかも知れません。牧師や教師や宣教師になる為に、神学大学や教会の大学で訓練を受ける青年が必要です。イエス様はあなたを呼ぶでしょうか。又、第2の人生の仕事の為に、イエス様はあなたを呼ぶでしょうか。
クリスチャンはキリストの為にすべてを捨てる時があるかも知れませんが、その時、イエス様はあなたに必要な物をぜんぶ下さいます。下さるのは十字架かも知れません。ルカ9:23で、イエス様は弟子達やすべての人々にこの様に言われました、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
イエス様の後に歩きましたら、十字架の所まで一緒に行きます。十字架上で、イエス様は私達の罪を赦す為に死んで下さいました、そのようにして、私達は神様の愛を見る事が出来ます。キリスト信者として生きて、神様の愛を分かち合いましたら、毎日に背負(せお)わなければならない苦しみの小さな十字架があるかも知れません。しかし、十字架までにイエス様に従ったら、空っぽのお墓までにも従います。復活は、イエス様に従う人々が待ち望む喜びです。
マタイがイエス様の呼び掛けに答えた時、大喜びをもって、マタイは自分の友達とイエス様を自分の家での宴会に招待しました。マタイの友達は徴税人や宗教的な指導者が嫌いな人でした。しかし、この人々こそにはイエス様の愛と赦しが必要とする人々でした。イエス様はそのような人こそを救う為に来られました。マタイは友達に自分の信仰を分かち合って、救いの福音を紹介(しょうかい)しました。イエス様が彼らに話した時、かれらは嬉しかったでしょう。何故ならば、私達もその言葉を聞く時、嬉しいからです。
イエス様は言われました。「医者(いしゃ)を必要とするのは、丈夫(じょうぶ)な人ではなく病人(びょうにん)である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
私達をも招く為に来られます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会