聖書のみ - Sola Scriptura

        10月になりました。毎年、10月を「宗教改革月」としてお祝いします。1517年10月31日に、マルチン・ルターは、ドイツ・Wittenburgの町の城教会の入り口に、彼の有名な「95箇条」を張りました。その「95箇条」のテーマは、罪の赦しと、どのように天国に行けるかという事です。ルターが非難したのは、免罪符の販売、煉獄、とローマ法王の権利でした。その時から、次の50年間に、ルターとほかの宗教改革者達は、そのものについて論じあいました。ルターとほかの宗教改革者達にとっては、キリスト教会の教え(教理)を理解するために、4つのポイントがありました: “恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ、聖書のみ”です。教会の中では、良くそのラテン語の言葉を言います:Sola Fide, Sola Gratia, Solus Christus, Sola Scriptura.

       長い年月nengetsuルーテル教会に来ましたら、それを以前から聞いた事がありますでしょう。ルーテル教会に新しく来ましたら、同じ事を違う表現で聞いた事があるかも知れません。ある人にとっては、今日の説教は、その復習です、他の人にとっては新しいかも知れません。この説教が教義のようにしたくありませんが、最初はそのようです。

       A 今日は、“聖書のみ”のテーマから始めます。聖書は“聖なる本”です。この本が聖であるのは、神様の本であるからです。神は聖であるので、神の物も聖です。又、聖霊の霊感によって書かれた物です。ですから、特別な、正確な、権利がある尊い本です。

       イエス様が生まれる前に書かれた所を“旧約聖書”と言い、イエス様が生まれた後の所を“新約聖書”と言います。「約」と言う言葉は「約束」や「契約」と意味します。即ち、神様の救いの古い救いの約束と救いの新しい約束です。最後の晩餐の時、イエス様はこのように言われました。ルカ22章19,20節。

『19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』

  1. 宗教改革時代の質問とは、聖書の正しい解釈と、その解釈を決める人です。実は、聖書の解釈は、聖パウロ時代からです。聖パウロは、どのようにイエス様が旧約聖書の預言を成就したか説明しました。初代教会の中には、聖なる三位一体についての問題がありました。イエス様は同時に神であり人間であるかどうかの問題でした。A.D.325年に、ニケヤと言う場所に、大きな教会会議がありました。三位一体を正しく述べる信仰告白として、ニケヤ信条を認めました。でも、いつも人々が自分の個人的な考えを本に書きました。人気になったものが教会全体に広がりました。ローマ法王がそれを認める時、正式な教会の教義になりました。それで、免罪符、死んだ聖徒への祈り、煉獄、ざんげ、祭司が結婚する事が出来ない事など、等、等が教会の中に入り込みました。

       マルテン・ルターは聖書を勉強して、その多くのものを聖書の中に見つけませんでした。いや、聖書の教えに反対するものも発見しました。それで、ルターはその95か条を書いて、又ほかの多くの本やトラクトも書きました。ルターの本は教会の正式な教えの反対であったので、ローマ教会は、ルターがそれを取り消すように、公に自分が間違っていて、ローマ教会の教えが正しいであると言いなさいと命令しました。ドイツのウォルムスの町で、ドイツの皇帝の前に連れてこられて、会議がありました。その時、ルターは彼の有名なスピーチを話しました。

 「私は聖書と明白な理性によって確信するのでない限り、私は教皇と教会会議の権威(けんい)を認めない。 … 私の良心は神のみ言葉にとらわれているのであるから。私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背(そむ)くことは正しくないし、安全でもないからだ。我、ここに立つ。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ。アーメン。」

言い換えますと、ルターは「聖書のみ」と言いました。

  1. 現代の教会の中では、私達も「聖書のみ」の上に立つべきです。

      しかし、どのようにそれをするでしょうか。どこに立つべきでしょうか。神の御言葉の上に立ち続きのために、力と信仰と勇気はどこから来るでしょうか。それは、教会学校の先生から説教者までの仕事です。

       私は、神学大学にいる時、説教のクラスで教えられたのは、神の御言葉を二つに分ける事です。それは、旧と新約聖書に分ける事より、神の律法と神の福音を区別する事でした。律法は、私達がしなければならい事を教えますが、福音は、私達の為にキリストがなさった事を教えます。私達はその律法を守らないので、それは悪い知らせです。キリストは私達の為にその律法を守って、十字架上で死んだので、それは良い知らせです。問題は罪です。解決策は罪の赦しです。人間にとっては、神の律法を完全に守る事が出来ないし、自分を救う為に良い業を充分にする事が出来ないので、救い主イエス・キリストが必要です。

       この世の中、又自分の人生の中には、多くの問題があります。病気、死、憎しみ、貧乏、戦争、天気、などなど。キリスト教会には、一つの答えしか与えられていません。その答えとは、イエス様の十字架です。赦しの力によって、御言葉に従って人生を送ります。信仰によって生きます。神の恵みと愛があるので、それだけによって生きます。

        それで、私達は、マルチン・ルターと共に言えます:

「我、ここに立つ。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ。アーメン。」

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会