2024.3.10     受難節第4主日B

耐えきれない事は魂の中の炎の蛇のようです

第一日課                  民数記  21: 4~ 9
福音書の朗読    ヨハネ           3:14~21

イスラエルの民は、約束の地に帰る為に、エジプトで400年待ちました。モーセによってエジプトでの奴隷状態から導き出された時、希望で満たされました。長い旅になると分かりましたが、モーセがアブラハムとヤコブに約束された地までに導くと信頼しました。しかし、先ず、この数多くの群衆がエジプトからカナンまで旅する事が必要でした。カイロからエルサレムまでは、飛行機で680キロです。一番短い道路で、1,247キロです。車で、@一時間80キロでは、15時間半かかります。歩けば、@一日15キロ、安息日で休んで、9週間かかります、2ヶ月以上です。しかし、イスラエルの民には、40年間かかりました。ある所で、数年間も留まりました。
ですから、イスラエルの人々の気持ちが分かります。

  • 民数記21: 4~ 9 (旧249)、4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、 5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」

毎日毎日、全ての食事は、もう約38年間で、マナばかりで、疲れました。彼らがカナンに入らないように敵の軍隊と戦って、疲れました。その敵に合わないように、長い遠廻りの道で、疲れました。早く約束の地に入りたいと思いました。それで、その旅に何回も同じように、文句を言いました。神様にもモーセにも文句を言いました。もう忍耐が出来ない、希望がない、信仰がありませんでした。それで、神様は、毒の炎の蛇を民に向かって送られたのです。不信仰の為のバツでしたが、同時に、それによって分かって来たのは、ただ一つの希望が主なる神様である事です。彼らの新しい信仰がこの言葉によって表現されています:「私達は主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、私達から蛇を取り除いて下さい。」

  • モーセは民のために主に祈った。 8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿(はたざお)の先に掲(かか)げた。蛇が人をかん(bite)でも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

不思議だと思いますが、痛みの原因のシンボルが、その痛みを癒やす事です。私個人が想像しますが、そのイーメジが死んだ蛇かも知れません。蛇を制服したのは、神の力と恵みと御自分の民の為の愛でした。青銅で作られたので、もう脅しではありません。旗竿の先に上げられたので、キャンプのどこからでも、誰でも見る事が出来ました。信仰のない自分のテントの中にとどまった人は死にました。何故ならば、青銅の蛇を見上げる事は信仰の業でした。祈りの業でした。新しい信仰と神に対する信頼を持って、イスラエルの民は、出エジプトの旅を続けて、エリコの近くてヨルダン川を渡りまして約束の地に入りました。

イエス様が来られて福音を述べ伝えた頃、人々の忍耐がもう弱くなったころでした。約束の地はローマの支配下でした。炎の蛇がなくても、他の恐ろしい心配させるものがありました。人々はイエス様の奇跡を見たり、彼のメッセージを聞いたりしました。忍耐がもう弱くなった一人の人は、ニコデモでした。イエス様の話が分からなくて、イエス様の為に質問が多いでした。イエス様は色々を説明しようと思いました、例えば、再び生まれ、聖霊の力、信じるすべての人の為の永遠の命、又御自分の独り子を与えるほどの神の愛です。どのようにニコデモがこのすべてを理解する事が出来るでしょうか。どのように私達もこのすべてを把握する事が出来るでしょうか。その時点ではニコデモが分からなかったでしょうが、私達は理解する事が出来ます。イエス様は言われました:

  • ヨハネ3:14~15、そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

荒野の中の人々が目上げて蛇を見た時、主なる神の愛を見たと同じように、私達は目上げて十字架上のイエス様の愛を見ます。その時、信じます、永遠の命を得ます。天国の約束の地に入る事が出来ます。洗礼において、ヨルダン川を渡ります。

荒野の中で何年も何年も過ごしますと、イスラエルの民は、希望が少なくなって、神やモーセへの信頼も少なくなりました。私達も神や私達の指導する人に対する忍耐が少なくなります。沖縄のハブのような炎の蛇がなくても多くの事で患っています。まだまだ38年になっても、もう十分で、もう忍びたくありません。私達の叫びは詩編13篇のダビデのようでしょう、「いつまで、主よ」と。その答えは、十字架上に上げられたイエス様を見る事です。3日間でした。信仰を持って、死を見る、復活を見る、その昔からの蛇である悪魔の敗北を見るのです。それで、私達は今日の詩編107篇と同じように告白する事が出来ます。

  • 苦(く)難(なん)の中(なか)から主(しゅ)に助(たす)けを求(もと)めて叫(さけ)ぶと 主(しゅ)は彼(かれ)らの苦(くる)しみに救(すく)いを与(あた)えられた。

私自身が、神様の答えが遅くなっていると感じて忍耐が少なった時、又他の人の事がもう我慢出来ないと感じる時、その時、自分の心でさえも我慢出来ない時があります。その時、一番好きな詩編の一つの言葉を思い起こします。詩編42:12です。

  • なぜうなだれるのか、私の魂よ
    なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう
    「御顔こそ、私の救い」と。私の神よ。

教会の受難節の間、一つしかのメッセージがあります。即ち、十字架を見よ。あなたの救いを見よ。私達に命を与える為に、永遠の命を与える為に、イエス様は死にました。それは愛です。ヨハネ3:16-17が言うようです、

  • 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
  • ヨハネ3:14~15、そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

アーメン。                                        マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会