旧約聖書 申命記5:12~15 (旧289) 福 音 書 マルコ2:23~3:6(新64)
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
マルコ2:23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならない事をするのか」と言った。
もし僕がそこいましたら、犯罪は、泥棒であると思います。即ち、自分の畑ではない麦を取って食べるからです。それは、どの曜日でしても、違反でしょう。弟子達の犯罪は、安息日に麦を収穫する事です。お腹が空いても、飢えても、麦の穂を少しでも摘む事は働きでした。そして安息日に、すべての働きが禁じられていました。後で、会堂の中で、片手の萎naえた人を癒やしました。犯罪は、人を癒やした事だけではなくて、それが安息日だったからです。
- マルコ3:6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのよ:うにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
どうしてそんなに心配したでしょうか。どうして安息日の律法がそんなに非常に大切でしょうか。ただの律法主義ではありません。ユダヤ人がだれであるか・神がどなたであるかと言う事を理解する為に、安息日の律法が根本的なものです。何故ならば、この律法の中には、神様の愛する民の為の素晴らしい恵みと救いを見るからです。
出エジプトの前に、イスラエルの民はエジプトの国の中で奴隷でした。ある人は農家、ある人は羊飼い、大工やレンガ作り、仕立て 屋テーラ、商売人、いろんな職人なでした。住むゴシェンの地方やすべてのエジプトでの必要な仕事しました。しかし、自由ではありませんでした。休む日や祭日の休みがありませんでした。月31日、年365日働かなければなりませんでした。週末がありませんでした。自分の主人に休みがあっても、奴隷は主人に仕えて働かねければなりませんでした。
そして、出エジプトがありました。モーセは彼らを奴隷状態から自由状態に導きました。自由があれば、いつも働かなくても良いです、休む事が出来ます。
モーセは人をエジプトの中から導きましたが、実は、人々を救い出して下さったのは、イスラエルの主なる神です。燃えている芝の所で、モーセに言われました:
- 出エジプト記3:7-10. 7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う(おいつかう)者(もの)のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛(いた)みを知った。 8それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々(ひろびろ)としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫(あっぱく)する有様(ありさま)を見た。 10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
第三の戒めは、奴隷解放宣言です。神の御心とは、奴隷状態からイスラエル人が自由になることです。仕事から休みがある事は、神の意思です。
第三の戒め:「あなたは、安息日を覚えて、これを聖とせよ。」何を覚えるでしょうか。何を思い出すでしょうか。
- 出3:15あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
安息日は、ただの休日ではありません。自由になった開放を祝う日です。もう奴隷ではありません。安息日に働く事でしたら、再び奴隷になる事です。主なる神の救いを拒否する事です。すべての人々の為の休みの日でした。家庭の皆の為でした。しもべは休みます。お母さんは料理をしません。学生は、夕方まで待って宿題をしました。動物でさえも働きませんでした。イスラエル人の街に住む外国人も、仕事をしませんし、店を開きませんでした。イスラエル人は、他の人が自分の為に働かせてはいけませんでした。この日こそ、他の人を奴隷にしません。
どうして、イエス様の時代のユダヤ人が、安息日の律法を厳しく守ったでしょうか。もしかしたら、人間の欲張りでしょう。例えば、一人の店の人が安息日に自分の店を開けたら、町の他の人がその商売のお金がほしいので、自分の店を開くでしょう。他の店と商売が始まるでしょう。大工は働かなければなりません。農家は畑の仕事をし、皆は再び仕事の奴隷になります。
{[僕は子供の時、日曜日にどのスーパーマーケットも開いていませんでした。今は、皆はその日曜日のビズネスがほしいです。店員は皆が働かなければならない奴隷のようです。日本に最初に来る時、最初のお正月に、3日間で全部がしまったので、町に食べ物を買う所が探しにくいでした。今は、元日で、皆が買い物に行きます。]}
イエス様の時代のユダヤ人が、人々がエジプトでの奴隷状態から神の救いを忘れる事を心配したでしょう。人々はすべての物の為に神様に頼らないと心配したでしょう。指導者達は、律法の小さな割れ目をも許す事が出来ません。ですから、イエス様を止めさせなければなりませんでした。
マルコ2:27 イエス様は更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28だから、人の子は安息日の主でもある。」
安息日は、神様からの贈り物でした。働く人に休みを与えました。又、お腹が空いている人や手の萎えた人に癒やしを与えました。善を行う事、命を救う時でした。
私達キリスト信者は、安息日の律法を守らなくて良いです。七日目の安息日の変わりに、休みの日として日曜日にしました。両方ともは、解放の祝いです:奴隷状態からの自由と罪からの自由です。自由になる為に、イスラエル人は、何もしませんでした。モーセによって主なる神は彼らを救い出しました。罪からの自由を得る為に、私達も何もしません。人生の犠牲やお金を払いません。自由になる為に私達の良い業も何も出来ません。イエス・キリストの死と復活によって、神様は私達を自由にしました。
キリストの自由を持って、自由に何をする事が出来るでしょうか。安息日は神の救いを覚える日でした。日曜日ごとに私達も神の救いを覚えます。聖書を読んで、賛美を歌って、罪の赦しを得て、説教と教えを聞いて、神の愛がどんなに尊いものであるか悟ります。祈ります。神の慰めと力を受けます。善を行います。素晴らしいギフトである自由の為に、神様に感謝します。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会