1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
日曜日の朝ごとに私達は教会に来ます。礼拝をして、祈って、私達の主なる神様について学びます。それで、教会学校と聖書研究会と説教があります。イエス様の時代に、安息日のシナゴグの会堂は同じでした。ある日、イエス様はカファルナウムの会堂の先生になりました。その日に教えたテーマとは、多分、マルコ1:15と同じでしょう。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。これはまったく新しい教えではありませんでした。旧約聖書の預言者やバプテスマのヨハネには似ているメッセージがありました。人々が神様のみ言葉を信じるように、罪を悔い改めるように、自分達の王として主なる神様を信頼するように言いました。イエス様の教えに対する新しい対応は、人々の感情です。22節、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」律法学者は、会堂で教えるラビと言う先生です。自分の権威を持って話しませんでした。例えば、「誰々のラビは何とか何とかと言う」又「代々伝えてきた伝統はこれこれと教える」と。イエス様は他の人に頼りません。又イエス様は「私が思う」又「何々だろう」と言われません。権威を持って述べ伝えます、「時は満ち、神の国は近づいた」と。権威を持って命令します、「悔い改めよ。福音を信じよ」と。イエス様には権威があったので、大胆に真理を言う自由がありました。
イエス様の説教のトーン、その響きで人々は非常に驚きました。この新しい先生は誰だろうと思いました。どこで勉強したでしょうか。誰がこのように話す権利を与えたでしょうか。彼らは知りませんでした。マルコの福音書を読み続けますと、これは一つのテーマになります。人々はイエス様に質問したり、彼を疑ったり、ついに、彼を十字架につけたりします。その日のシナゴグの人々は、イエス様が預言者だろうか、それともメシアだろうかと考えたでしょう。しかし、その日の会堂の中の一人はイエス様が本当に誰であるか知りました。汚れた霊に取りつかれた男です。その男は自分自らで話すか、それとも彼の中にあった悪霊が、言いました、「正体は分かっている。神の聖者だ」と。もし人々はこの狂っている汚れた霊に取りつかれている人の話を聞いたら、イエス様についての印象が間違っているでしょう。イエス様は、ご自分がメシアである事をまだ知らせたくなかったです。似ている対話は、マルコ8章にあります。弟子達に聞きました、「「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」しかし、十字架上にいる時、神の国が来ましたと世に告げる時期になりました。イエス様はユダヤ人の王である事です。ヨハネ19:19 「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。」その時、マルコ15:39、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」
会堂に汚れた霊に取りつかれた男が叫びまし。1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と。その時から、同じ叫びを数え切れない人々は言います。今日も、福音を信じようと思わない人から聞きます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。キリスト教の伝道師、かまわないでくれ。僕の自由を取って、僕の人生を滅ぼさないで下さい。僕の霊が汚れても、好きです。僕はあなたの権威を認めません。」
イエス様の権威や神の御言葉の権威を受け入れる為に、何が必要でしょうか。同じように、ある人は何かについて良く話しますが、その人の権威を信頼しますか。何が必要でしょうか。宗教だけではなくて、すべてです:学校の先生、両親、科学者、指導者、政治家、自分のボス、自分の連れ合いです。信頼する時は、上手に働く時や約束を守る時や真実を言う時です。
イエス様がその汚れた霊に取りつかれた男を癒した時、人々がイエス様に権威があると認めました。言いました、「『これはいったいどう言う事なのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言う事を聴く。』1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」のです。現代も、多くの人が最初にイエス様を信じるのは、奇跡や癒しや信者の愛を見たからです。しかし、私個人の場合には、イエス様の権威や神の御言葉の権威を確信するのは、一つだけです。それは、イエス・キリストが十字架上で死んで3日目に甦る事です。復活しなければ、私はイエス様の言葉を一つも受け入れません。しかし、復活したので、イエス様がどなたであるか私には分かります。私の罪を赦す為に十字架上で死んで、私に永遠の命を与える為に復活したお方です。癒された人の言葉を借りて、私はイエス様の正体が分かっています。私達との関係があります。裁いて滅ぼす為に来ないで、私達を救う為に来られました。
私はイエス様の正体がかっています:神の聖者です。イエス様は私の正体が分かっています:神の大切な子供です。
アーメン。 マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会