パウロの回心
教会のカレンダーでは、1月25日に聖パウロの回心を覚えます。それで、今日、簡単に聖パウロの人生を見て、そして、彼に主から与えられた、彼が自分の時代の教会に伝えたメッセージを見て、私達の時代にも私達に伝えられたメッセージを見ましょう。
パウロが生まれた町は、現代のトルコの国の南西の地方にあるタルソスと言う町です。彼の両親はユダヤ人でした。お父さんはファリサイ派で(使徒23:6)、ローマ帝国の市民でしたので、パウロもローマ市民として生まれました。最初は、サウロと名づけられましたが、回心の後に、パウロと呼ばれています。厳しいユダヤ教の教えで育ちました(フィリピ3:5)。テントを作る職業を習いました。勉強の為に、エルサレムに行かされまして、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けました(使徒22:3; 26:4-5)。熱心な生徒でした。ステファノが石投げで殺された時、パウロはまだ若かったので、ただ、石を投げた人々の衣をあずかりました。パウロは、キリスト信者達が神を冒涜する、殺すべき異端者だと思ったので、彼らを逮捕しようと思いました(使徒9:1, 26:9、)。
その時、劇的な回心がありました。それが使徒言行録9章に記録されています。
サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らしました。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞き、その光がまぶしくて、パウロの目が見えなくなりました。視力がアナニアという弟子によって回復され、洗礼を受けました。その後、9:20、 “すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた”のです。
その3年くらい後に、宣教の旅に3回出かけました。ほとんど、生まれた地方で、異邦人に福音を延べ伝えました。4番目の旅で、ローマに連れられて行き、2年間牢に入れられました。AD66年か67年に、ローマで殉教者として殺されました。パウロの人生 が記録されているのは使徒言行録の中と、彼が書いた13の手紙の中です。初代キリスト教会の歴史の中にあります。
こんど、パウロが延べ伝えたメッセジーを見ましょう。パウロは、自分の時代の異邦人に説教しまして、現代の私達の為にも説教しました。キリストを信じる異邦人が、救われる為にユダヤ人にならなくてもよいと言いました。
彼のメッセージの要約 in a nutshell は次の箇所しょう。ローマ1:17, 3:27-28; 又はガラテア 2:16, 20.
@ ローマ1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
@ ローマ3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
@ ガラテア2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 - - - 19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
聖パウロが述べ伝えた福音による生活の手引きかガイドブックの一つは、マルチン・ルターの小教理問答書かもしれません。信仰のみ、恵のみ、キリストのみ。
毎週日曜日、讃美歌や聖書や説教でこの事を話しますので、今日そのものの細かい事を話したくありません。代えて、一つだけの点を見たいと思います。パウロの回心のすぐ後でこのように読みます、使徒言行録9:20、「すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。」ユダヤ人にとって、これは異端です。その異端を無くする為に、パウロはダマスコに行きました。ユダヤ人は、イスラエルの主なる神だけが神であると信じたので、イエス様が神ではないと思いました。
私達皆は私達の父なる神の子供達です。パウロは「イエス様こそ神の子である」と話す時、その意味ではありません。イエス様は神であると意味します。例えば、動物の象の子は象です。馬の子供は馬です。人間の子供は人間です。神の子は神です。これがパウロにとってはカギです。すべてのキリスト教の信仰のカギです。もしイエス様が神で無ければ、キリスト教の教えに意味がない、力がありません。不合理です。もしナザレのイエスが神の子で無ければ、彼の十字架上の死が世の罪を赦しません、誰をも救いません。そうでしたら、彼の復活は素晴らしい奇跡だけで、私達の為に復活と永遠の命を与えません。
イエス様は神である事が、4つの福音書に延べ伝えられています。マタイ1:23、彼はインマヌエル・我々と共にいる神;洗礼を受ける時、天からの声が言いわれました、マタイ3:17、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者”」荒れ野で悪魔は彼をテストしました、マタイ4:3、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」そして変貌の時、、再び、雲の中の声が言われました、17:5、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」そして、弟子トマスは甦られたイエス様と出会った時、言いました、ヨハネ20:28、「わが主、わが神」と。
ですから、教会は聖なる三位一体の神の教理を愛します、大事にします。ただの神学的な表現ではありません。ただの哲学的な言葉ではありません。礼拝です、信仰です、喜びです。私達の手を動かして、十字架を切るのです。私達の祈りに力と確信を与えます。洗礼を受けた神の子供の人生です。
今日、聖パウロの回心を覚えます。私達は自分の回心をも覚えます。罪深い私達には、いつも毎日、改心や生き返りが必要です。それは、自分の恥ずかしい罪を告白する事ですし、十字架上のイエス様の恥ずかしい苦しみと死による恵みと赦しの事でもですし、私達の心と人生を変えさせるキリストの素晴らしい復活です。回心とは、私達の死と復活ですし、私達の人生に新しい生き方を与えます。何故ならば、信仰によって生きる事は、ただの気持ちではありません。毎日の人生のすべての事との反応と決断と生き方です。聖パウロは回心をこのように言うでしょう、 ガラテヤ3:19、
「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会