辛子種一粒の信仰が罪を赦す

ルカ7:1-10

      1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3 あなたがたも気をつけなさい。

 もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

      5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

      6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

 7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

イエス様は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

 しかし、その事を本当に行った人と出会った事がありません。又、キリスト教会の歴史上で、私が知るかぎれ、誰も、桑の木に命じて、その木が自分で根を抜け出して、海に根を下ろした事がありません。それで、私の結論とは、イエス様は例え話のように話しました。その意味とは、人に最も小さい信仰があれば、辛子種ほどの小さい信仰が有っても、大きい奇跡が出来ます、不可能なものを可能にする事が出来ます。

        しかし、そのような信仰がありましたら、馬鹿な事をしないでください。海の塩水に植えたら,桑の木が死ぬからです。それで、信仰を利用して、辛子種ほどの小さい信仰でしても、それを利用して大きい事をしましょう。イエス様の弟子達は言いました、「わたしどもの信仰を増してください」と。イエス様の弟子達にとっては、大きい信仰が必要な事とは、兄弟を赦す為でした。その兄弟は七回以上でしょう、絶えず、兄弟に対する罪を犯したでしょう。イエス様の12人弟子達の内に、二組の兄弟がいました:ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネです。イエス様は彼らに向かってその言葉を言われたでしょうか。兄ヤコブは弟ヨハネをいじめたでしょうか。とにかく、家族の者や仕事の仲間は、とっても うるさい時があります。桑の木よりも、その罪人を海に捨てる事が出来たら「いいな」と思う時があるでしょう。イエス様はある場合には、そのような事を勧めるみたいです。そして、海に捨てる前に、首に大きくて重いひき臼、又、錨のような重い物をつけて、海になげます。そのようにしたら、そのやかましい兄弟やうるさい姉妹を処分する事が出来ます。

        私は真面目です。人を死刑に裁く事は大変です。それをする必要な時があるでしょう。小さい者の一人をつまずかせないようにです。その小さい者とは、子供もキリスト教会の新しい人もです。信仰が成長する時期で、信仰が弱いのです。正しくない、迷わせる異端から守る為です。

 イエス様は赦しなさいと命令しましたが、私達がキリスト信者であるので、人を赦したいと思います。イエス様は、私達を赦す為に十字架上で死んだので、私達は他の人を赦したいと思います。それを主の祈りで祈ります。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」それは、キリスト者の生き方です。人を赦したいと思います。ある罪や無礼を赦す事が不可能みたいでしても、それを赦したいと思います。例えば、もし誰かがあなたの家族の一人を殺しましたら、その殺人者を赦す事が出来ると思いますか?そして、もし、その人が悔い改めなければ、どうでしょうか。その人が、「すみません・ごめんなさい」と言わない、いや言いたくない時、どうでしょうか。もし私達が赦しの言葉、「大丈夫だ。心配しないで。オーケイです、赦してあげます」と言ったら、その人が本当に赦されているでしょうか。神様のみ前で、赦されているでしょうか。イエス様は「悔い改めなさい、福音を信じなさい」と言われたので、悔い改める事や自分の誤りを認める事が必要です。でも、決して自分の罪を感じないし、決して「すみません」と言わない人がいます。私達に対して悪い事や無礼をしたと感じない人がいます。


私達が、無礼な人を赦す時、自分の肩から重荷を下ろします。自分の心や思いに平和を与えます。何故ならば、仕返しなくても良いし、その人を罰しなくても良いし、神様に任せるのです。ローマ12:19,「12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」私達は個人的に人を赦す事が出来ます。警察や裁判はその人を赦さないかも知れません。それを主なる神のみ手にゆだねます。

       他の人の交わりの中で私達が人生を送るので、自分に対する、個人的な無礼と誤りと罪があります。その人があやまらなくても、私達の心の中には、個人的にその人を赦す事が出来ます。それは主の祈りの中で願う事です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」キリストの弟子達、教会、すべてのキリスト信者、あなたと私の働きとは、罪を赦す事です。

        キリスト教会のシンボルとは、十字架です。十字架とは、赦しのシンボルです。復活した日の夕方、イエス様は弟子達に現れて、彼らに罪を赦す命令、権利と力を与えました。ヨハネ20:21-23。

『21 イエスは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』

 私達一人一人には、「万人祭司」のメンバーであるので、罪を赦す為に、同じ命令と権利と力があります。即ち、キリストの十字架を述べ伝える事です。それは、ただ、クリスチャンとして活きる事です。

        桑の木を海の中に投げる事のように、海の中に罪を投げる事がふさわしいです、何故ならば、それが洗礼の海でしたら、その海に溺(おぼ)れる事は、赦しと永遠の命の復活になるからです。

大きなミッション、大きなチャレンジですが、それをする時、私達は素晴らしい事をしますが、誇(ほこ)ってはいけません。私達は言います、『私どもは取(と)るに足(た)りない僕です。しなければならない事をしただけです』と。大きい事をしませんでした。からし種一粒ほどの信仰の働きしかありませんでした。イエス様は、十字架上でその大きな仕事をして下さいましたからです。

       アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会