イエス様は言われました、ヨハネ6:48、「私は命のパンである。」ここでイエス様は小麦粉で作られた食べ物のことを言っていません。むしろご自分が永遠の命を与える方であるといわれます。2つの方法でこの言葉を理解する事が出来ます。それは霊的な方法と物質的な方法です。
先ず霊的な方法です。命のパンとは神様の御言葉です。荒れ野で悪魔に石からパンを作れと誘惑された時、イエス様は言われました。マタイ4:4「「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」」。と。本当の栄養を与えるのは神の御言葉です。
生きる為に、健康の為に、私達は食べなければなりません。霊的にも、本当に生きる為に、元気で完全に生きる為に神様の御言葉が必要です。ですから、教会はいつも人々に聖書を読みなさいと言います。勿論、出来れば聖書を毎日読めばいいです。普通の食事と同じように、定期的にいただく事が大事です。定期的に聖書を読めなければ、霊的な飢えの状態になります。私たちの神様への信頼と希望が弱くなります。信仰があやふやになります。
スーパーマーケットの中には食べ物の種類が多いです。ほとんどは体に良いものですが、食べ過ぎると体に悪いものもあります。ですから、バランスのとれた食事が大切です。聖書を読む時も同じです。例えば旧約聖書ばかり読めば、イエス様の事を知りませんので、イエス様があなたの救い主である事を知りません。それで、聖書のメッセージを二つに分けます。律法と福音です。律法は神様の怒りと罰を告げ、福音は神様の愛と赦しと救いを告げます。バランスの為に両方の療法(りょうほう)が必要です。ある時、律法は食前の前菜 のように働いて、良い知らせを聞くための準備をします。
イエス様は御自分こそは命のパンであると言われました。それでイエス様の救いのメッセージは私達に誠の永遠の命を与えます。約束のメッセージです。希望と力を与えます。私達に永遠の命を与える為に十字架上で死んだ命です。
おなかをこわす物を食べた事がありますか。何か体に合わない物を食べて病気になった事がありますか。私達の体にとって良くない物があります。霊的に悪い食事も沢山あります。その物は私達に害を与えます。それは異端です。間違った教えと間違った聖書の解釈です。信仰のジャンクフード。これらは面白い空想で私達を満たしますが、私たちを支える栄養がありません。一時的な霊的な良い気持ちを与えてくれるでしょうが、砂糖とカフェインの効く目がなくなりますと、私達は疲れて弱くなります。本当に私達を支えるものとはイエス・キリストの福音です。その福音とは、イエス様が私達の罪を赦す為に十字架上で死んで、永遠の命と救いを与える為に三日目に復活した事です。
しかし、ある人は良い教えをいただこうと思いません。自分が罪人であると受け入れる事は難しいです。悔い改めて自分の人生を変える必要を認める事が難しいです。太った人がダイエットを守る事が難しいと同じように、自分の罪深い人生を変える事は難しいです。私達は神様のきびしい律法を欲しいと思わないで、赦しの甘いデザートを食べて、好きなままで人生を送りたいと思います。しかし正しいダイエットには、良い食事と良い体操が必要です。キリスト信者の人生にも聖書と信仰の体操の祈りと礼拝が必要で、悔い改めと新しい生き方が必要です。そして、そのように生きる為に、聖霊の導きが必要です。聖霊は聖書の約束と力を教えます。
イエス様は言われました、ヨハネ6:48、「私は命のパンである。」と。ここでイエス様は小麦粉で作られた食べ物を意味しません。永遠の命を与えるものであると意味しました。2つの方法で理解する事が出来ます。霊的と物質的です。
物質的に、イエス様は私達が食べる食パンのようです。イエス様は言われました。「6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」イエス様は天から降りてベツレヘムでお生まれになりました。人間の体、骨、血、皮膚、を受けました。肉体的にイエス様が苦しんで死んで、肉体的に復活しました。ヨハネの福音書1章が教えるように、神の言葉は肉の体を取りました。神の言葉とは、ただ本の中に書かれている綺麗な言葉だけではありません。言葉は形を取って、働きました。この約束の言葉はイエス・キリストによって成就(じょうじゅ)されました。私達はイエス様を食べなければなりません。イエス様を私達の物質的な人生の一部にしなければなりません。
これは聖餐式のアクションもです。イエス様は命のパンです。旧約聖書時代には、神様に捧げる贈り物と犠牲の捧げ物がありました。捧げ物の一つはパンでした。まず、神殿の聖所に捧げた12個のパンがありました。イスラエルの12部族を表す12個のパンでした。そのほかにも祭壇に燃やしたパンの捧げものもありました。これはイエス様を意味します。イエス様は私達の罪を赦す犠牲です。信仰を持って私達は罪の赦しをいただきます。キリストの犠牲の結果をいただきます。永遠の命と救いをいただきます。
イエス様は言われました、「私が命のパンである。」イエス様は私達を支えます。
主の祈りで、「我らの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈ります。小教理問答書が教えるように、「日々の糧」とは、生きる為にすべてのものを含みます。そして、主なる神様は本当に必要なものを毎日を下さいますので、この言葉は感謝の祈りになります。「天の父よ。感謝します。日々の食べ物を始め、毎日必要な恵みを下さいますので、感謝します」と。イエス様は御自分が命のパンであると言われたので、このようにも祈れば良いでしょう。「我らの日ごとの命のパンを今日も与えたまえ」と。「イエス様を与えて下さい。信仰を下さい。主よ。感謝します。イエス様が命のパンであると信じる信仰を下さいましたので、私達は永遠に生きるので、感謝します。」
おかしい質問かも知れませんが、イエス様は、硬いフランスパンのようでしょうか、それとも甘いジャムパンのようでしょうか。場合によって、私達はそのようなイエス様が必要です。人生が厳しい時にも、人生が楽しい時にも、イエス様が私達を支えます。霊的にだけではなくて、毎日の生活の上にも私達を支えます。そして主の祈りを祈る時、そのすべてが含まれています、「日々の糧を今日も与えたまえ。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会