1 今日の福音書の日課と次の2つの主日の福音書には同じテーマがあります、即ち、イエス様は言われます。「私が命のパンである」と。今日このイエス様の言葉を一つづつ見て、真面目にイエス様のみ言葉を見たいと思います。
2 最初の言葉は「私」です。イエス様はパンを与える事の名誉を、ほかの人と分かちあいません。彼だけは命のパンです。荒れ野でパンを与えたのは、モーセではなくて、天の父なる神様でした。今度父なる神様は、私達に誠の天からのパンを与えて下さいます。これは小麦粉で作られているパンではなくて、誠の天からのパンです、即ちイエス・キリストご自身です。このパンとは、水辺で5千人を食べさせた5つのパンと違います。イエス様ご自身がこのパンです。言われました、「私が命のパンである」と。イエス様以外のものを探してはいけません。ほかの先生や預言者の所を見てはいけません。栄養の為に、モーセの律法を見てはいけません。又、自分の命を支える為に、食事も見てはいけません。「私が命のパンである」と言われたイエス様を見なさい。
3 最初と最後の言葉を合わせますと、「私である」となります。「私はある」とは主なる神様、ヤーウェーの名前です。燃えている芝の所で、神様は御自分の名前を、モーセにこのように教えました。(出エジプト3:14)、「私はある。私はあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『私はある』という方が私をあなたたちに遣わされたのだと。」イエス様は命のパンである。主なる神様ヤーウェーは命のパンである。今日、聖なる三位一体の神様の神秘について話したくありません。しかし、新約聖書はイエス様が神様であるとはっきり教えます。命のパンを与えるのは神様です。同時に神様はその命のパンです。イエス・キリストに於いて、神様は私達に御自分を与えて下さいますので、私達が命を得る事が出来ます。
4 次に「命」です。イエス様は言われました、「私が命のパンである」と。では、命とは何ですか。色々の人に聞きましょう: 生物学者、哲学者、神学者、就職の指導カウンセラー、自分の友達、冒険者、遊び人。今日、この定義はどうでしょうか。命とは神様と共にいる事です。命とは神様の愛です。神様がこの世を愛するので、命があります。植物や動物や人間の為の命があります。そして、イエス・キリストには永遠の命があります。この命が永遠のものであるのは、イエス・キリストが永遠のもので、御自分を私達に与えるからです。十字架上で死にましたが、3日目に甦りました。私達も生きる事が出来る為に、イエス様は死にました。イエス様は私達に永遠の命を与えるパンです。それは神様と共にある命です。神様の愛と共にある命です。神の愛がなければ、本当の命があるでしょうか。
5 次の小さい言葉は、「の」です。この大切な「の」は、命とパンをつなぎます。そして、どのパンであるか教えます。即ち、命を与えるパンです、生きているパンです。「私は命を与えるパンである」と。
6 「パン」。イエス様の時代、パンは主食でした。日本でお米が主食と同じでした。ですから、イエス様は「私が命の食事である」と言われます。お腹がすいている時、私達は食べ物を探します。精神的に飢えている時、退屈な時、より良い人生を与えるだろうと思う物を探します。例えば:お金、愛、教育、友達、薬、食べ物、飲み物、スポーツ、遊楽、エンターテインメントなどです。しかし、そのものが私たちを満足せせるでしょうか。心を満腹にするでしょうか。この物は神様からの贈り物であるので、主の祈りの「日ごとの糧」のリストに含まれているので、大切な物で、神に感謝していただきます。そして、サンドイチやおにぎりをいただく時、その食事の為に感謝しながら、本当の天からのパンであるイエス・キリストを下さった神様に感謝します。パンは、生ける為に体に力を与えます。イエス様は、永遠に生ける力を与えます。
7 最後の言葉は「である」です。文法で現在形です。救いは今です。将来の為に待たなくてもいいです。神様との命はもう既にあります。時々キリスト信者は、将来の天国だけの為に生きているみたいですが、神様からの呼びかけとは、今の時に神様と共に生きる事です。イエス様は今私達の所に来られています。イエス様は命のパンである。今、イエス様は私達の人生の中で働いています。それで、私達は今、神様と共に働きます。「である」。「であろう」、「でしょう」、「たぶん」ではなくて、「である」と。即ち、イエス様は、本当に、確かに、間違いない、力と真の命を与える者です。「である」とは、「アーメン」と同じです。
8 「私は命のパンである。」アーメン。
9 どうか、神様の平和と喜びが、あなたの心と思いにありますように。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師、
沖縄ルーテル教会