使徒書、ローマ5:12-19.

 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 命の木

 創世記 2:15-17.  「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

        エバは、もうすでに善の知識がありました。悪の知識も得たいと思いました。神様の良い言葉を知りました。エデンの園の真ん中にあった木を除いて、自由にすべてのほかの木から食べても良いと知りました。自由がありました。生活は良くて楽でした。アダムも、園の中の働きは楽しいでした。畑には良い物しかありませんでした。悪の経験がありませんでした。永遠に生きる事が出来ました。悪とは何であるか分かりませんでした。

        「創世記3:1. 生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」蛇は女に言ったのは、善だけではなくて、悪についても知る事もあれば良いでしょうと。そうしたら、神様のように賢くなると言いました。知恵があれば、賢い判断、良いチョイスが出来ます。それをするため、何が良いか・何が悪いか、何が正しいか・何が間違いか、どちらの方がより良いか・より悪いかの知識が必要です。しかし、悪を知る方法とは悪いことをする事です。神様がしてはいけないと命じる事をする事です。エバもアダムも、その果物を食べました。二人ともの目が開かれました。二人ともは善悪を知りました。その木の実を食べて、自分達が悪を行ったと分かりました。恥と恐れをもって、園の木の間に隠れました。二人はその木の葉っぱを使って、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもので、罪を隠そうと思いました。

        「アダム、どこにいるのか。」これは愛の声です。『アダム、隠れなくても良いよ』と。自分の悪を知って、罪を告白して、悔い改める事です。その後には、呪いがありました。しかし、神様は彼らを見捨てませんでした。3:21「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」のは、赦しと守りのしるしです。

 

       その時以来、すべての人々には、善悪の知識があります。ある時は良い方を選らび、多くの時には悪い方を選べます。罪を選んで、多くの種類の禁じられている果物を食べます。最も大きい悪とは、アダムとエバと違って、人々に恥がない、神を恐れない事です。

 教会学校の時、私が思ったのは、もしアダムとエバがそのりんごを食べなければ、この世は素晴らしい平和的なところでしょう;罪がないし、問題がないし、死がないし、病気もありません。それで私は、世のすべての問題、特に自分個人の問題と罪と反抗などを全部アダムとエバのせいにしました。そして、いつか、分かってきたのは、もしアダムとエバがそのりんごを食べたなければ、私こそ、それを食べたでしょう。私はそれを食べて、世のすべての問題を起こして、世の罪が始まるでしょう。大きな責任でしょう。ですから、私達はアダムとエバにすべての責任を負わせる事が出来ません。何故ならば、私達皆が自分の時代で、自分の方法で、彼らの罪を繰り返しています。私達はそのりんごを食べて、又ピーチを食べて、又別の自分の最初の罪を犯すので、神様の呪いが私達の上にも来ます。

       今日の使徒書、ローマ5:12で、聖パウロはその事をこのように書きました。

5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

       罪と悪に対する神様の反応は、聖書に書かれています。ノアの時の大洪水がありました。しかし、その後にでも、人々は罪を行い続けました。モーセに律法を与えました。しかし、その後にでも、人々は罪を行い続けました。地獄と死の脅しがあっても、人々はそれを無視しました。最後に、み子イエス・キリストを送りました。新しい方法で罪を扱いました。恵みの賜物でした。賜物の必要性とは、罪深い人間は、自分の力で罪を止める事が出来ないからです。人々は、もう善悪の知識の木から食べていません。と言うのは、何が善か・何が悪か分からないからです。自己中心的に、良い道徳が悪い、又不便だと思います。又、道徳的な悪いものが楽しくて自分の為に良いと思います。善悪の知識の木から食べていません。善と悪の違いを知りません。

       聖パウロが教えるのは、救いが恵みであり、ただの贈り物である事が必要である事です。その恵み深い贈り物とは、神様が私達に対して良い事をしたいと思われるからです。私達に声をかけます。「アダム、どこにいるのか。」「あなたの為に、あなたの恥と恐れを隠kakuすものがあります。」「アダム、(マイケル)どこにいるのか。」それで、私達を探す為に、神の子を送りました。イエス様は人間として生まれました。この地のチリで出来た物質的な体でした。彼こそは、善悪を知りました。もうエデンの園ではなくて、私達のそれぞれの荒れ野の中で隠れている私達を見つけました。その新しい呼び声は「悔い改めなさい。福音を信じなさい」と言います。私達の目を開いて、新しい命の木を見せました、すなわち、十字架の木です。その木の上に悪がありました:世の罪でした。その木の上に善がありました:赦しがありました。それによって、救いがあります。神の裁きの反対でした。

  

       聖パウロが教えるのは、十字架上のイエス・キリストの働きは、アダムの行いよりはるかに力強いです。二人共はすべての人間に影響を与えますが、キリストによる神の救いは、アダムに対する呪いと裁きよりはるかに強いです。聖パウロは言います:

「5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

 

創世記 2:15-17.  「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 

信仰によって、私達はキリストの十字架の木の実をいただきました。これこそは命の木です。こうして、私達には、新しい命、永遠の命があります。

       アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師、沖縄ルーテル教会