ローマ6:1–11、マタイ3:13~17

洗礼の水の3滴

ローマ6:1–11

6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7 死んだ者は、罪から解放されています。8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

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福音書  マタイ3:13~17 (新4)

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、1あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

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洗礼には、どうして水3滴で十分でしょうか。それは、三位一体の神の御名によって洗礼が与えられているからです。

洗礼には、どうして水を3回かける事で救いがあるでしょうか。それは、父と子と聖霊の御名によってかけるからです。

洗礼には、どうして水の池の中に体全身を沈める事で救いがあるのでしょうか。それは、そのおぼれ死ぬ事によって、私達はキリストと共に死んで、キリストと共に甦るからです。ローマ人への手紙6;5、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあずかるならば、その復活の姿にもあずかれるでしょう。」

ニケヤ信条は言います、「われは罪のゆるしのための唯一の洗礼を信任す。」3つのポイントがあります。先ず、「唯一の洗礼」の意味とは、1回受ける事で充分です。何故かと言いますと、神の御言葉がそんなに力強いですし、神様は御自分との約束を守るからです。イザヤ書40:8、「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」「バプテスマ」と言う言葉は「洗う」と言う言葉から来ます。このような事があるでしょうか:石鹸で手を洗った後にも、石鹸の匂いが残る事です。又、洋服を洗濯した後に、柔軟剤の香りが残る事です。洗礼はそのようです。洗礼に使った水が乾きますが、神の御言葉はとこしえに立ちます。ある時、私の信仰が花のようにしぼみます、うたがいがあります。人生の問題があります。しかし、神の約束が永遠に立ちます。それで、洗礼式には、3つのものがあります:その水、神の御言葉、と私の信仰です。私の信仰はその神の約束を受け入れます。しかし、その3つの中で一番強いものとは、神の御言葉です。ですから、自分の洗礼を覚える時に力があります。試みや誘惑がある時に自信を与えます。困っている時に、希望を与えます。いつでも喜びを与えます。

次に、「唯一の洗礼」の意味とは、どこでも、いつでも、父と子と聖霊の御言葉によって行いましたら、同じ洗礼です。洗礼の神様の言葉はいつも有効です、それは、その言葉を話して式を行う人に関係がありません。ですから、別のキリスト教の宗派から席を移る時、その人を再び洗礼しません。ある教会は、幼児洗礼を受けた人や、体全体が水に入らなかった人を再洗礼したいと思いますが、それはぜんぜん必要がないです。いや、再洗礼は、洗礼の時の神様の役割と洗礼を授けた人の役割をうたがいます。何かを神の御名前によってすれば、神様がだれかを通して、神様が何かを行う事です。私は自分に洗礼をほどこしません。私は洗礼を受けます。神からの贈り物です。洗礼を受ける前に信仰に入る時があれば、洗礼を受けた後に信仰に入る時もあります。

ニケヤ信条は言います、「われは罪のゆるしのための唯一の洗礼を信任す。」洗礼によって、私達の罪が赦されていますが、私達はまだまだ罪を犯し続けます。赦されていましたら、どうして罪を犯し続けるでしょうか。聖パウロは、その同じ質問をローマにある教会に聞きました、ローマ6:2,「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪のなかに生きることができるでしょう。」これは矛盾です。当惑します。私達は赦された聖なる者ですが、それなのに、罪を行い続けます。“同時に罪人と聖人です。”それでも、罪にたいして言い訳がありません、罪を軽くしてはいけません。聖パウロは書きました、ローマ6:1、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2 決してそうではない。」私達のひとつの希望とは、イエス・キリストの死と復活によって、私達の罪が赦されている事です。聖パウロは書きました、ローマ6:10,「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」洗礼を受けて、私達がイエス・キリストによって生かされています。

ルカ3:3「そこで、〔洗礼者〕ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」そして、イエス様が来られる時、こう読みます、マタイ3:13~、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」

ヨハネがイエス様の事を知りました。イエス様は良い人で、悔い改めて赦しを受ける必要がありませんでした。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」がいりませんでした。罪を犯した事がないからです。しかし、イエス様は洗礼を受けたいと思いました、それは、ご自分の為ではなくて、私達の為でした。このように言われました、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」「正しいことをすべて」と言う言葉はあなたと私を含むでしょう。それこそは、キリストが人間として生まれる事の意味です。イエス様は私達の為に生まれ、私達の為に洗礼を受け、私達の為に荒れ野で試みられ、私達の為にゲセマネの園で悲しんで、私達の為に十字架上で苦しみ死んで、私達の為に復活し、私達の為に昇天しました。イエス様のすべての働きは、私達の為に正しいことをすべてするためでした。神様との正しい関係を作る為、救いを与える為でした。

洗礼によって、私達が罪から自由になります。それは、罪を犯しても、その罪が私達を支配しない事です。聖パウロは言います、6:6「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」私達は自由になりました。それは、洗礼の力です。自分の罪に悩まされる時―なやむべきでしょう、又、神様のみ前に自分の価値を疑う時、自分の洗礼を思い起こしましょう。何故ならば、神様は私達の洗礼を思い起こすからです。ご自分の約束の言葉を覚えます。その言葉はマルコ16:16です、「信じて洗礼を受ける者は救われます。」

自分の洗礼を覚える時に力があります。試みや誘惑がある時に自信を与えます。困っている時に希望を与えます。どんな時にも喜びを与えます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師

沖縄ルーテル教会