律法の鎖から自由にされた
「レギオン」と呼ばれた人がいました。「レギオン」とは「軍隊」と意味します。そのようにたくさんの悪霊がこの男に入っていたので、「レギオン」とよばれたのです。その悪魔は彼をつないでいた鎖より、はめられた足枷よりも強いでした。その男はそれを引きちぎったのです。イエス様はその悪霊が彼から出るように命令しました。その時から自由になりました。平和を得ました。
私達はその人がかわいそうと思います。私達は彼の状態を理解する事が出来るからです。私達の中には、軍隊のレギオン程の悪魔がいないでしょうが、自分の悪霊があります。私達をわずらわすものがあります。私達をつなぐ鎖と足枷があります。私達は何でもかんでも好きな事が出来ません。法律、義務、規定、ルール、交通ルール、借金、税金などです。その中の多くのものには問題がありません。しかし、時々、いらいらします。自由になりたいと思います。
私達キリスト信者は自由です。それはキリストの働きです。それは福音です。古い宗教の制度、その鎖と足かせが「律法」と呼ばれています。律法には目的がありましたが、私達のクリスチャンにとっては、キリストによって、その律法の仕事が終わります。最初のクリスチャン達はユダヤ人でした。それでモーセの古い律法を、どこまで守らなければならないでしょうかと考えました。現代のクリスチャンは、モーセの律法の中の好きな箇所を選んで、他の人々に鎖と足癖をつけようと思います。
今日の説教では、聖パウロのガラテア人への手紙を見ます。自由宣言です。今日の使徒書の日課を見て、聖パウロのメッセージの考え方を見ましょう。
再びガラテア3:23-4:7を読みましょう。。。。。。
これから、そのガラテアの手紙から引用します。
小教理問答書のクラスをおぼえているでしょうか。言われている「律法の目的」が3つあります。「第一、律法は罪の激烈(げきれつ)な暴発(ぼうはつ)を抑制(よくせい)し、政界(せいかい)の秩序(ちつじょ)を保つ(たも)為のものです。」「縁(えん)石(せき)」のように、車が道路の外を走らないためのものようです。「第二、律法は私達を責めて、罪を明らかにします。」「鏡」のように、私達が一人一人犯す罪を現します。私達が罪人であると責めます。そして、「第三、神様の喜ばれる生き方の為に、何をする、また、何をしてはいけないかを、私達クリスチャンにアドバイスをしてくれるものです。」「手引き」のようですが、神様に喜ばれる生き方の力は、律法ではなくて、福音や聖霊の導きから来ます。
今日の使徒書には、聖パウロは律法が刑務所の看守(かんしゅ)や養育係のようであると言います。ガラテヤ3:23、「信仰が現れる前には、私達は律法の下で監視(かんし)され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」法律の中には罰と報酬があります。それによって人を支配します。法律や秩序がなければ、殺し合わなければ、この世界はメチャメチャでしょう。イエス様が来られて、私達を救い出すまで、律法が私達を守ると聖パウロは言います。避難小屋のようですが、刑務所のようです、(バラ線)有刺鉄条網で囲まれた避難民のキャンプのようです。この世は危ない所です。自分個人を守るボーディガードが必要でしょう。聖パウロは、律法が特別なボーディガードであると言います。
聖パウロとイエス様の時代には、金持ちの家の若い男の子が毎日学校に通う時、奴隷と一緒でした。この奴隷は彼の本や文具を運び、そして、事故や誘拐者やいじめから守り、そして、その子供に良い行儀作法を教えます。この奴隷の評判は良くありませんでした。失礼で、厳しくて、他の仕事が出来ない者だそうです。子供の学生は年頃になるまでに、この奴隷の養育係の下にいました。「義務教育」のようでしょう。{ところで、ギリシャ語では、このような保護者は"pedagogue paidagōgos"です。現在の英語には、"pedagogue" と言う言葉の意味が変わって、先生と意味します。}パウロは、律法はそのようであると言います。律法の仕事は、私達は神様についての教育を得て、行儀作法を覚えさせる事です。しかし、これは自由な時期ではありません。子供の学生は自由ではなくて、その奴隷が言うとおりにしなければなりません。奴隷の奴隷です。
私達は律法の奴隷でしたら、好きなように走り回って遊ぶ事が出来ません。神様の御心は、私達は神様の事について習って、倫理(りんり)と道徳(どうとく)的に良い人になる事です。私達が自由になるのは、私達がキリストの信仰に入る時です。聖パウロは書きました、「24 こうして律法は、私達をキリストのもとへ導く養育係となったのです。私達が信仰によって義とされるためです。25しかし、信仰が現れたので、もはや、私達はこのような養育係の下にはいません。」キリストが来られるまでに、私達は罪人です。律法は私達の牢屋になり、ただの看守やボーディガードより、私達を奴隷にする主人になります。律法の下には救いがありません、失われて、死に宣告される状態です。罪の奴隷、悪魔の奴隷です。そしたら、神様から遠く離れていて、神様との関係がありません。私達の主人、私達の父とはサタンで、私達は悪魔の子供になります。そして、私達はその家がどこにあるかと分かります。
しかし、それは、「信仰が現れる、キリストが来られる」までです。信仰がある時、もう牢屋が要りませんし、養育係の奴隷である律法も、もう要りません。年頃になるようです。信仰によって、神様との新しい関係があります、即ち、「信仰によって義とされる」状態です。「義とされる」という事とは、神様との「関係が正しい」との意味です。一番近い関係とは、家族の縁です。ですから、聖パウロが言います、「26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」神様は私達の父で、私達は彼の子供達です、「29アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と。パウロによりますと、その相続人になる事は自動的ではありません:信仰が必要です。そして、この信仰はバプテスマによって公に告白されています。聖パウロは言いました。「27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」私達は自分の刑務所のユニフォームを脱ぎました。もう学生の制服を身に着けません。キリストの制服を着ると、彼の会社に属していて、彼の為に働く事を表します。あるキリスト教の宗派には特別な洋服があります、保守的なアメリカのペンシルバニア・ダッチ(アメシュ)はそうです。しかし、そのグループはかなり律法主義で、彼らの服は、福音の自由を拒むと私は感じます。又、私達には十字架のバッジが要りません、十字架のネックレスが要りません。私達の制服とは、私達の生き方だからです。違うコンテキストですが、聖ペテロはこのように書きました、第1ペテロ3:3「 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」即ち、キリストを身に着けると、人々はキリストの愛と奉仕を見る事が出来ます。
キリストの事を忘れましたら、神様に対して反乱したら、罪を犯す時、キリストのユニフォームを脱ぐ事のようです。再び罪の刑務所に戻る事です。逃げる事が出来ません。又、私達を見張る暴漢がいる見たいです。いつも私達を見て、悪い事をしたら、私達を強いて律法を守るように罰でおどします。
逃れは、キリストの信仰によるのみです。キリストはその牢屋から救い出します。聖霊によって、キリストは私達の養育を完成して、私達の本当の救い主がどなたであるか教えて下さいます。私達は自分の洗礼を覚えて、罪の赦しを受け、心を洗い、再びキリストを身に着けます。
最後に、聖パウロは、このキリストによる新しい命はすべての人々の為であると言います。神様の目には、社会的や経済的や民族的な違いがありません:すべての人々がキリストを信じる信仰によって救われて、神様の家族に迎えられています。聖パウロは言います、「28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」神様はアブラハムに空の星の数や海辺の砂の数の子孫を約束して、そして、彼らに住む事が出来る素晴らしい土地を約束して下さいました。キリストを信じる信仰によって、私達はアブラハムの子供になって、乳と蜜の流れる土地、約束の地に導かれています。そこで、私達は「アッバ、父よ」と祈
ります
アーメン。 マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会