福音書 ルカ4: 1~13 (新107)
4: 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
クリスマスの話しははっきり教えます。イエス様は同時に神であり人間です。同時に神の性質と人間の性質です。使徒信条は言います:「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれた」と。ですから、神の子であり、人の子です。40日間、荒野で断食する時、人間である事には疑いがありません。でも、神であるか、それとも,ただの人間だけでしょうか。悪魔はその事をテストしたいと思いました。3つのテストは3つの誘惑のように来ました。ご自分の空腹の痛みを癒やす為に食べ物を作るか、十字架の痛みをなくする為に世界の権力を得るか、そして、危険な事故から救うように、神の約束をテストする事です。
洗礼をヨルダン川で受けられた時、このように書いてあります、ルカ3:21-22、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。」その同じ聖霊は、イエス様を荒野に導かれました。そこで、父なる神様の言葉がテストされます。悪魔は言いました、「神の子なら。」空腹を覚えるのは、人間にとって自然ですが、神には、ありえません。もしイエス様が空腹でしたら、彼が神ではない事の証拠になるのでしょうか。荒野の中で、イエス様は奇跡をする事が出来ました:後で、5つのパンと2匹の魚で5000人を食べさせました。石をパンにする奇跡は、イエス様が神の子である証拠になるでしょうか。そうではないと思います。旧約聖書の預言者エリアが奇跡をしたからです。私は思うのは、その時、奇跡をしなかった事が、ご自分が神の子である証拠になります。神の子であるので力があって、完全に天の父を信頼する事が出来ました。このように言われる事が出来ました:「人はパンだけで生きるものではない」と。40年間、荒野の中のイスラエル人に、マナを与えました。マタイの福音書は、申命記8:3をもう少し長く引用します、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。それで、イエス様はその神の言葉を成就します。
イエス様は福音を述べ伝えました。「神の国が近づいた」と言われました。その御国が来るのは、ユダヤ人の王が十字架に付けられ、死んで、復活した後です。苦しみと十字架の悲しみが、神の子の為に待ちました。その痛みを全部捨てるには、父なる神に対する忠実さを捨てて、悪魔のしもべになる事です。しかし、お生まれになった時に人間の肉を受ける理由をイエス様は知っていました。それは、神に使えて人々を救う事です。イエス様は言われました、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」このようにして、ご自分が本当に神の子である事を示しました。
3つ目のテストは、神を誘惑する事です。危険の事故から神様がイエス様を救うかどうかのテストでした。飛び降りたら、父なる神様が御自分の息子を助けるでしょうか。十字架上の死から、父なる神様がご自分の御子を救い出すでしょうか。人間のお父さんが自分の子供達を愛するのと同じように、御自分の子の為に、十字架の苦しみから御自分の愛する子を救う誘惑に陥るでしょうか。ゲツセマネの園のイエス様はその答えを知りました。いいえ。十字架から救い出して下さいません。イエス様には、神をテストする必要がありませんでした。神の愛を知っていたからです。ご自分が本当に神の子であると知りました。イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになったのです。イエス様はテストに合格しました。本当に神の子でした。
「マルコ4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と。その時とは十字架に付けられる時です。ルカ23:35~39。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲kakaげてあった。39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
御自分を救わなかったので、私達を救いました。何故ならば、彼は本当に、神からのメシアで、選ばれた者、ユダヤ人の王、神の子であるからです。
私達も、悪魔によって,3回だけではなくて、多くの方法によって試みられています。誘惑によって、悪魔が私達をテストする3つの方法を見ましょう。イエス様が神の子であるかどうかテストされて、私達は、神の子供であるかどうかテストされています。私達の人生が寂しい荒野のように感じる時や、もっと良い生活の為に必要なものがない時や、神様は「日々の糧」と生きる為にすべての必要なものを与えない時や、石をパンや卵にする奇跡の力がない時 ―― その時、私達の父なる神様の愛を疑うように誘惑されています。洗礼によって本当に神の子供になったか、確認して神様にテストされたいと思います。
自分の周りの世界を支配する力が必要だと思う時、悪魔を拝むように、法律を破ったり、他の人を苦しめたりするでしょうか。日曜日の朝、私達が共に祈ります、「み国を来らせたまえ」と。しかし、私達の教会が大きくならない時、聖霊の力を疑います。私達が神の子供達ですか。確認して、聖霊をテストしたいと思います。
『あなたの足が石に打ち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』でしょうか。特に、屋根から飛び降りる馬鹿な事をする時です。神の愛の恵みを試して、難しいもの為に祈りますか。私達の願い通りにならないと、神の力や神の憐れみを疑うでしょうか。私達が勝手にこのように思うでしょう:『僕は洗礼を受けた神の子供だから、神様、あなたには僕を助ける義務があります。助けてくれないと、もう、あなたを信じようと思わないよ!』。その通り、私達は、わがままで、へそまがりで、頑固な子供達です。
いつも、絶えず、誘惑が来ます。悪魔から、この世から,私達の罪深い人間の性質から来ます。その誘惑に陥れるでしょう。罪を犯すでしょう。でも、私達一人一人神の子供です。神様は私達一人一人を愛します。赦しと救いをもたらす為に、御自分の独り子、イエスキリストをこの世に送るほど、私達を愛します。それで、私達は、人生の荒野の中で独りではありません。世の終わりまで、イエス様はいつも私達と共にいます。そして、私達に勇気と力を与えるのは、悪魔に話したイエス様の3つの言葉があります。
- 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
- 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」
- 「あなたの神である主を試してはならない。」
イエス様は本当に神の子でしょうか。3日目にお墓から復活した事は、その証拠だと私は信じます。
最後に、私達の為に、
~~ ルターの小教理問答書・主の祈り ~~
六の願い 「われらを試みにあわせず。」
この意味は。
答: 確かに神は、だれをも試みにあわせられません。しかし、われわれはこの祈りにおいて、神がわれわれを助け守って、悪魔やこの世やわれわれの肉が、われわれをあざむいたり、またまちがった信仰や絶望、または、その他の大きな罪や罪悪におちいらせないようにしてくださることを、また たとえわれわれが試みにあっても、われわれが最後には、これに打ち勝ち、勝利を得ることができるようにしてくださることを祈るのです。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。
どうか、人知ではとうてい測り知る事のできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会