変容の山の上に6人がいました。イエス様、モーセとエリヤ、そして3人の弟子達、ペトロ、ヨハネとヤコブでした。
イエス様、モーセとエリヤは、エルサレムでイエス様の救いの働きについて話し合いました。この新しい出エジプトのような救いは、エジプトでの奴隷からの救いではなく、罪と地獄の奴隷状態からの救いです。イエス様はその二人の預言者の忠告やアドバイスが要りませんでした。エルサレムで行う事をもうすでに知ったからです。逮捕され、裁かれ、鞭打たれ、十字架に付けられ、葬られます。三日目に復活する事を知りました。イエス様は神であり人間でありました。そして、人間として苦しみます。ゲツセマネの園で、心から苦しみました。ですから、二人の預言者は、イエス様を支える為に勇気を与えたでしょう。同時に、特に、その場面を見た弟子たちにも、これからエルサレムで起こる事の為に、彼らを支える為の勇気を与えたでしょう。私達もうそうです。聖書の中で私達もその変容の山の栄光を見たので、勇気をもらいます。
モーセの話は、イスラエルの民に、エジプトから荒れ野に導いて、その次の40年間、いつもその民と戦いました。しかしモーセは神様の御計画を知りました。その御計画とは、御自分の民を約束の地に連れて来る事です。それで、そのへそ曲がりの人達を指導する為に忍耐としのびがありました。同じように、イエス様は人々を地獄から救い出しますが、人はいつも不平をぶつぶつ言うでしょう。多分モーセの話は、ペトロにとって良いアドバイスになるでしょう。イエス様が死んで甦った後に、キリストの新しい教会の中には、多くの問題が起こります。モーセのように、ペトロにも多くの問題がありました。そして、モーセのように、ペトロも現代の教会も覚えなければならないのは、その救いの出来事と救いの約束です。それこそは私達に勇気と忍耐と耐え偲ぶ力を与えます。私達の罪を赦す為にイエス様は十字架上で死んで下った事を知り、天国の約束の地に私達を連れていく為に、再び来られる事をも知ります。しかし今私達はこの荒れ野のような地にいます。しかし、天からのマナに食べさせられています。即ち、キリストの血と体です。又、私達の創造主の御手から、毎日の糧によって生かされています。ですから、人生の喜びと愛があります。
モーセは、シナイ山の上で神様の律法を受けました。その律法はイエス様に宣告して、彼が死ななければなりません。律法によりますと、罪人を罰するように命令します。そして、ひどい罪でしたら死刑になります。それで、イエス様が御自分の上に世の罪を取った時、その罪の罰をも御自分の上に取らなければなりませんでした。罪と共にその罪に対する罰もあります。それで、私達から私達の罪を取った時、イエス様はその罪の罰をも私達から取りました。それは神様の律法の正義です。それが「犠牲」と呼ばれています。又、「贖い」と呼ばれています。又、「身代わり」と呼ばれています。「別の人の代わり」と呼ばれています。モーセの律法で、これは犠牲の羊になります。福音で、イエス様は「世の罪を取り除く神の子羊」になります。弟子のヨハネは変貌の山にいました。ヨハネはイエス様の栄光を見ました。彼の書いた福音書の中には、「栄光」が大きなテーマです。シナイ山の律法の栄光の代わりに、ゴルゴダの山の福音の栄光になります。イエス様は完全な過ぎ越しの羊として死にますので、彼の血は私達を守る、私達を救い出すしるしになります。ですから、イエス様の完全な栄光を見るのは、十字架上に上げられる時です。
預言者エリヤも変貌の山にいました。聖書によりますと、彼は死なないで、火の馬車で天国に連れられて行かれました。エリヤは力強い預言者でした。彼の時代に、多くのイスラエル人は神様の愛を忘れました。主なる神様を捨てて、バアルの偶像の神々を拝みました。しかし、エリヤは強い言葉としるしによって主なる神様の御心を述べ伝えました。アハブ王はエリヤを殺そうと思いましたが、エリヤは逃げました。変貌の山には弟子ヤコブがいました。ヤコブはエリヤから勇気と力を得たでしょう。ヤコブは新しい教会の指導者で、大胆にイエス様の福音を述べ伝えました。しかしヘロデ王は教会を迫害して、剣でヤコブを殺しました(使徒12:2)。教会の歴史の中で、多くの信者達にはその同じ勇気がありました、何故ならば、彼らもイエス様の栄光を見たからです。これは、変貌の山の栄光をも、ゴルゴダの山の栄光でもあります。この栄光が神のご計画を表します。この栄光が私達に勇気を与えるのは、自分の人生の為に神様にはご計画があると分かるので、人生に意味と希望を与える事です。私達の人生の意味とは、神の愛の中で活きる事です。私達の人生の希望とは、他の人と分かち合う愛が、その人も神の愛に導く事です。この愛は永遠の愛です。私達はエリヤのように火の馬車によって天国に行かないでしょうが、最後の日の主のラッパを聞いて、その時、私達もキリストの栄光を見る事が出来ます。
3人の弟子達は目を覚まして、主の栄光とその変容、イエス様の姿が変わるのを見ました。素晴らしくて、弟子達は長くその所にいたいと思いました。ペテロは「仮小屋」を3つ建てるように提案しました。この個所に使ったギリシャ語の言葉(スケーノス)は、仮小屋やテントの事です。そして、旧約聖書の中には、荒れ野でモーセが作った神殿のような幕やです。ペトロは、イエス様が本当に天国から来られた方であると分かったでしょう。その山の頂は聖なる場所であると感じました。それで3つの幕屋、3つの神殿をこの3人の為に建てたいと思いました。しかし、イエス様とその3人の弟子達は山を降りなければなりません。イエス様の為に神殿が備えられていました:即ち、十字架です、お墓です、又すべての信者達の心の中です。イエス様は私達の心の中にいます。信仰によって、私達もキリストの栄光を見ました。
アーメン。 マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会