出エジプト記 24:8–18、     2 ペトロ 1:16–21、   マタイ 17:1–9

主の変容:“預言の言葉はいっそう確かなものとなっています”

        どうしてイエス様がその3人の弟子達を連れて変容の山に上られたでしょうか。そう言いますと、どうしてこの話が3つの福音書に書かれているしょうか。それで、私達もイエス様と共に山に上ります。それで、私達も弟子達と共にイエス様の言葉を聞きます。雲の中の天国の声が私達にも言われます、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」それで、私達と弟子達は、何を聞くでしょうか。救いのご計画を聞きます。そのご計画は、もうすでに、変容の山に登る前も、すべての12人の弟子達に話されていました。それをマタイ16:21で読みます。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」神のご計画とは、イエス様が十字架上で死んで、3日目に甦ることです。

        その時、12人の弟子達はイエス様の言葉を耳で聞きましたが、その本当の意味を聞きませんでした。理解する事が出来ませんでしたし、イエス様が彼らの為に死ぬ事を受け入れたくありませんでした。イエス様は、弟子達の指導者達―ペトロ、ヤコブ、とヨハネ―に、それが神のご計画である事の証拠を見せなければなりませんでした。即ち、それがイエス様の個人的な新しい考えではない事です。救いのご計画が、昔から、旧約聖書の預言者達に掲示されていました。特に、モーセとエリヤでした。モーセとエリヤが変貌の山にいるのは、イエス様の為にだけではなくて、弟子達の為にもでした。弟子達に神のご計画を知らせる為でした。イエス様に対する信仰と信頼を強くする為でした。

       数年後、ペトロは第2の手紙を書きました。その手紙はすべてのキリスト信者の為でした。今日の使徒書の日課で、ペトロが言うのは、キリストの変容の出来事によって分かった事があります。即ち、旧約聖書が神の御計画を予言した事です。このように書きました、第2ペトロの手紙1:16-21、「16わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私達は巧みな作り話を用いたわけではありません。私達は、キリストの威光を目撃したのです。17荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。19こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。20何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。21なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」

       現代のキリスト信者が、どうして毎週日曜日ごとに旧約聖書を読むかと思います。それが“古い”ですし、“新しい”新約聖書ではイエスキリストの福音だからです。読む必要がないと思います。何故ならば、先ず、分かりにくいですし、礼拝中に長い時間がかかりますし、私達の人生に関係ないと思います。しかし、ペトロが言うのは、旧約聖書の予言は、明るい、「暗い所に輝くともし火」のようです。その暗い所とは、私達の心です。「夜が明け、明けの明星」のようです。私達の暗い不信仰の心の中で、イエス様が私達の救い主であると掲示します。まるで、変容の山で、イエス様と弟子達を覆った「光り輝く雲」のようでしょう。雲の中から声が言われました、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。

       4つの福音書を読む時、旧約聖書から多くの引用があります、特に、イザヤ、エレミヤ、と詩編です。ほとんどの箇所は、イエス様の誕生や苦しみと死と復活についてです。この箇所が表すのは、イエス様の十字架と死が、何かの間違いや不正義ではないことです。イエス様の人生は、ご計画に沿ったものです。この旧約聖書の言葉は、イエス様が十字架上で死ぬ事が父なる神の御心である事を教えます。ですから、十字架には目的と力があります。この旧約聖書の予言があるので、福音書の話しが正確であり、正しいという確信を与えます。それで、旧約聖書を読むと、私達のキリスト教の信仰がさらに強くなります。

        今日の福音書の日課の中で、私の好きな言葉とは、ペトロがイエス様に話す時です。ペトロは、その素晴らしいシーンを見ました。イエス様の衣が輝くほど白いでした。モーセとエリヤがイエス様と会話をしました。興奮したペトロはイエス様に言いました、4説、「主よ、私達がここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」もし、その山の上に、私もいましたら、何と素晴らしいことかと思います!私もそこにいるのは、すばらしいことだと思います。ゆっくりその時をエンジョイしたいと思って、テントを張りたいと思うでしょう。そして、その時、雲から神の声を聴くと、私も非常に怖がるでしょう。恐ろしいから、地面に落ちて、頭の上に手を覆うでしょう!何故ならば、罪人が聖なる神の前に立つ事が出来ないからです。イエス様の素晴らしい栄光を見ると、私は興奮しますが、十字架上の苦しみと痛みについて聞きますと、おののきます。イエス様の苦しみの原因とは、私の罪であると分かってくるからです。私の為に苦しみました。私を赦す為でした。

        神のご計画の栄光とは、赦しです。旧約聖書のすべてのいけにえはイエス様を指さします。世の罪を取り除く神の小羊です。それは、復活の栄光です。それが私に平和を与えるものです。まるで、イエス様が弟子達に近づいて、彼らに手を触れて言われたようです。「起きなさい。恐れることはない。」と。

        「一同が山を下りるとき、イエス様は、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」のですが、キリストがもうすでに復活していますので、私達が自由に誰にでも、すべての人に、その山の上の見た事を話す事が出来ます。旧約聖書の予言者達のように、神様からの幻の中のメッセージを見る時、それを皆さんに話す事です。ある時、そのメッセージは、イスラエルに対する罰のご計画ですが、ある時、イスラエルに対する神の愛、赦し、と救いのメッセージでした。弟子達がイエス様の言葉を聞いた時、そのようなメッセージを聞きました。私達も、イエス様に聞く時、そのメッセージを聞きます。即ち、神の愛、赦し、と救いです。

       アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師

沖縄ルーテル教会