マタイ11:2~11

ヨハネの質問と私達の信仰の答え

バプテスマのヨハネは牢に入れられていました。ヨハネは、メシアが来られると預言しました。しかし、ナザレのイエスが、本当に約束されたメシアでしょうかと彼は疑いました。これは良い質問でした。ヨハネの考えでは、メシアはどのようなかたでしょうか。イスラエルを変える政治上の人でしょうか。そうでしたら、どうしてヨハネがまだ牢に入れられているでしょうか。又、メシアは、政治的なチェンジを始め、社会的にも経済的にも、自然の環境的な変化をもってくるでしょうか。それで、このように彼はイエス様に聞きました、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

        そして、イエス様が答えて下さった時、メシアの働きの正しい定義を教えました、「11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」」

        私達はヨハネのように牢に入れられていないでしょうが、時々、私達もイエス様の事を疑います。もしイエス様が本当に「王の王、主の主」でしたら、私達が必要と思う政治的や社会的や経済的や自然環境的な新しい指導と変化や改革はどこにあるでしょうか。イエス様が本当に私達の救い主でしょうか、それとも、ヨハネの言葉を借りて、「ほかの方を待たなければなりませんか。」と言うでしょうか。

        イエス様がヨハネに教えた同じ事を私達にも教えます。見聞きしていることです。即ち、私達はキリスト信者達の愛と慈善charityを見ます、特にクリスマスの時期です。この愛と慈善charityは世俗社会にも未信者達の心にも溢れます。特にクリスマスの時期です。驚くほどです。まるで、目の見えない人が見える事のようで、足の不自由な人が歩ける事のようで、病気の人が癒されているようで、いや、死者が生き返る事さえのようです。何故ならば、貧しい人は福音を告げ知らされているからです。

信じても信じなくても、クリスマスの話によって伝えます。霊的に貧しい人や、心が貧しい人や、健康にとぼしい人や、経済的に苦しく貧しい人々も、福音を聞くからです。そして、救い主としてイエス様を信じる人は幸いです。

又、私達にはなお更にすばらしいしるしがあります。バプテスマのヨハネはそのしるしを見る事に恵まれていませんでした。聖書の中で、私達はイエス・キリストの死と復活を見る事が出来ました。この良い知らせは貧しい人々に伝えられています。私達は霊的に貧しいですが、しかし聖霊にみたされています。

        そして、私達はその十字架と復活の素晴らしいしるしを見たので、私達には、イエス・キリストによって、罪の赦しと永遠の命があると分かります。このしるしを見て信じているので、バプテスマのヨハネに与えられたしるしの中に、私達はキリストの働きを見る事が出来ます。特にこのクリスマスの時期には、ほかの人に与えられている愛と慈善charityの中に神様の働きを見る事が出来ます。

 

 

       ですから、希望と喜びと信仰を持って、私達はクリスマスをお祝います。ほかの救い主を探した方が良いでしょうか。いいえ!メシアを見つけました。飼い葉おけの中に、ガリラヤの湖の辺で、十字架上で、復活の園の中で、又私たちの人生や私たちの心の中にイエス・キリストを見つけました。聖書や聖礼典の中で、聖霊は私達にキリストを現して下さいました。

        私は、クリスマスの買い物を終わっていなくても、もう、クリスマスの準備が出来ています。それは、自分の救い主として、イエス様を見つけて信じるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師

   沖縄ルーテル教会