2025.11.2  全聖徒の主日 ローマ5:6-11

聖徒:同時に聖徒と罪人

       先週は、ルーテル宗教改革をお祝いしました。信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、聖書のみについて話しました。今日は「同時に聖徒であり罪人である」と言う宗教改革のテーマです。このテーマを今日話すのは、今日が全聖徒の主日だからです。そして、このテーマに「聖徒」と言う言葉があるからです。自分の救い主としてイエス・キリストを信じる私達は、彼の十字架上で流された血によって清められ、聖なる者になりました。ですから私達も「聖徒」と呼ばれています。しかし、同時に、私達はこの罪深い世に住んで、罪を犯す罪人です。

        教会の中には、2つの種類の聖徒があります。一つは、自分の名前の前に、「聖」と言う言葉を付ける者です。例えば、聖書の中にある聖ペテロ、聖パウロ、聖ヨハネがいます。教会の偉大なる先生、聖アウグチンや聖ジェロムがいます。又、信仰と愛の模範になる聖カタリナ,聖フランシコ、などです。二つ目の生徒の種類とは、一般的なキリスト信者です。十字架上で流されたキリストの血によって清められた信者です。それはあなたと私をも含みます。今日は全聖徒の日なので、死んで、今天国で主と共にいる、私達が個人的に知っている聖徒をも覚えます。これも「聖徒」と言う言葉の定義に入ります。

       聖書の中の「聖なる」と言う言葉は、「清い」や「罪がない」事だけではありません。「聖なる」事とは、聖なる者である神様に属している事を意味し、す。それで、例えば、神様の本とは、「聖書」です。キリストが与える食事は、「聖餐式」と言います。神様の民とは、聖なる民です。あなたは神様に属しているので、あなたも聖なる者、聖徒です。神様の働きをする時、あなたは聖なる事をしています、聖徒にふさわしい事です。洗礼によって、神様は私達を御自分の子供にしまして、御自分の聖なる名前を私達に付けました。もし、あなたは、自分の名前の前に、「聖」と付けると、どうのように響くでしょうか。J

        しかし、それなのに……

       同時に、自分が罪人である事が、分かります。この世が誘惑でいっぱいで、私達はその誘惑に陥るからです。我々クリスチャンにとっては,これはいらいらさせられる事です。それで、罪の告白をする時にこのように言います、「私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いとことばと行いとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りないあわれみによりたのみます。」

        聖書の中では、「罪」や「罪人」と言う言葉の意味とは、悪い事をする事だけではありません。「罪」は「聖なる」事の反対です。神様に属していない事です。それで、神様から離れましたら、私達がたとえ良い事をしても、その良い事が神様の愛から来るものではないので、良い業でしても聖なる清い業ではありません。それで聖徒とは救われた人で、罪人とは滅びに裁かれた人です。

        「同時に聖徒と罪人」と言う表現を使う時、人間の状態を表します。これは事実です。私達クリスチャンにある心の格闘です。私達が罪を犯すので、悪魔を始め、私達の罪深い心も、周りの世界も、私達が聖なる清い者ではないと教えます。その全部が言うのは、私達が天国にふさわしくない事です。正直に考えますと、それは本当だと認めます。しかし、イエス・キリストを自分の救い主として信じる私達は、十字架上で流された血によって清くされ、聖なる者にされました。それは私達のただ一つの希望です。それは信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、聖書のみです。

        私達ルーテル教会の会員に来る誘惑とは、“同時に聖徒と罪人”を祝いますので、罪を真面目に考えない事です。『自分が後で赦されるので、大丈夫です。大胆に罪を犯しましょう、それで、恵みが更に豊かに来る為です。』罪の為に心が騒がされた人の為に、神様の赦しの約束が私達の罪より強い事が大きな慰めです。洗礼の神様の約束と聖餐式によって、イエス様との契約を再び結びますと、キリスト信者にとって、素晴らしい開放、慰めと喜びです。しかし、罪を犯しても大丈夫だと言う言い訳ではありません。

       1から10までのスケールで、罪人から聖徒までのスケールで、あなたは自分をどこに置くでしょうか。50%のところでしょうか。キリスト信者の目標は、聖徒の方に近くになるように努力する事です。それは「聖化」と言います。素晴らしい目標です。しかし,それによって、私達が救われているかどうか神様は判断しません。私達は自分の働きによって救われていないからです。私達が罪人でしても、救われているのは十字架上でのイエス様の働きによるからです。聖パウロはその事をこのように書きました、ローマ5:6-11.

 「5:6 実にキリストは、私達がまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私達に対する愛を示されました。9 それで今や、私達はキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11 それだけでなく、私達の主イエス・キリストによって、私達は神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

        これは私達の人生のダイナミックな、生き方です。私達は同時に、“聖徒であり罪人であります。” 私達のクリスチャン生活を理解する為に、現実的な方法です。矛盾していますが、同時に救われていて、滅ぼされている事です。しかし、   私達の人生の中で、神様の愛の力強いダイナミックです。その愛は、私達の罪を取り払って、私達の悲しみと涙をふき取って、私達の恐れを取り除いて下さいます。私達の深い罪と不安の中には、驚くべきな、ショッキングな、過激的な、素晴らしい神の愛と恵があります。

       今日、私達はこの素晴らしい神の驚くべき恵みを経験した人々を覚えてお祝いします。昔の聖徒も現在の聖徒も覚えます。そして、私達はその数に加えられているので神様に感謝します!

       アーメン。

 マイケル・ニアフッド、牧師

沖縄ルーテル教会