宗教的な文句を言った者

イザヤ29:11-19、エフェソ5:22-33,マルコ7:1-13

          今日の聖書日課には、まず、預言者イザヤがいますし、そして使徒パウロ、そしてユダヤ人のファリサイ派の人々と律法学者がいます。皆は、宗教のプロフェッショナルでした。私もそうです。それで、私が彼らに責任がある人に対する関心や心配が少し分かると思います。彼らは皆、その人々に対して文句や非難がありました。私にもたまにあります。イザヤはその時代のユダヤ人を非難しました。聖パウロは、エペソの教会にアドバイスを書きました。そいて、ファリサイ派の人々はイエス様の弟子を批判しました。

          イエス様は、ファリサイ派の人々を偽善者と呼びました。言われました:

          「マルコ7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先では私を敬うが、/その心は私から遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしく私をあがめている。』」

          今日の福音書の日課はこのようにはじめます:マルコ7:1、「7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」彼らに感心するのは、衛生ではなくて、儀式的な清めか汚れです。モーセの律法の中の規定は、ほとんど、神殿で犠牲を捧げる祭司の聖なる行いです。しかし、ユダヤ人の律法学者達は、詳しく説明して、ものを加えました。自分の教えをモーセの律法と同じようにして、両方共を完全に守るべきだと言いました。

          最初に、この規定を作る時、ファリサイ派の人々と律法学者達は、普通の人々がモーセの律法を守るように助けたいと思ったと私は思います。手を洗う事を初め、ほとんど全部でした。例えば、どのように聖なる安息日を守る事です、何が仕事であるか、安息日にどの距離を歩いても良いでしょうか。などです。

          キリスト教会の先生達も同じ事をします。先ず、聖パウロは、キリスト信者達にアドバイスを言います。今日の使徒書は、結婚の夫と妻のお互いの関係に付いています。そして、キリスト教会が大きくなると、教会の指導者達のアドバイスも増えました。例えば、金曜日で何を食べてはいけないか、受難節の断食、どのように聖徒に祈るべきか、などです。宗教改革時代、マルチン・ルターは、イザヤとイエス様と同じように考えたでしょう。「7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」しかし、人々は、神の御心を知らなければなりませんので、ルターは小教理問答書を書きました。しかし、彼が書かれた事で、十の戒めをなおさらに守りに難しくしました。たとえば、殺してはいけないが、隣人を助けて守る事です。盗む事やむさぼる事がだめであるだけではなくて、隣人の持ち物を守る事になります。そして、現代の小教理問答書のテキストブックを見ますと、ファリサイ派と律法学者たちに似ている所があると私は思います。それは、現代の問題のために、聖書を理解しようと思う事です。普通はそれが立派ですが、それがただの独りの人の意見か、聖霊の導きでしょうか、いつも考えます。

          心の良心の事、常識もです。遠足に行きました。おにぎりを食べる前に、手を洗わなければなりませんか。すべての社会的な決まりを守らなければなりませんか。自分で、判断してもいいか。二千年前に聖パウロが書かれた言葉が、現代も、私達の社会にも、適当でしょうか。

          罪人である私達には、汚い手と汚れた心があります。清めるには、十戒を守る事や、山上の説教によって生きる事や、主の祈りによって生きる事や、無数の宗教の規定を守る事は、役に立ちません。清めるには、イエス・キリストの働きによってだけです。ご自分の手が汚れました。手には血がありました。釘がその手を指して、十字架につけました。その汚い手こそ、私達を清めます。その血が私達を聖なる者になります。洗礼は、神の子供になった事の約束です。洗礼によって、私達は永遠に濡れています、永遠に私達を洗います。

          聖霊は私達の信仰を強めます。私達が間違っても、神様が私達を赦して下さる事をいつも知っています。そのように人生を送ります。それで、悪い事をしても良い訳ではありません。でも、イエス・キリストによって、私達の罪が赦されている事が大きいな慰めと安心と力と喜びを与えます。

          アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師     沖縄ルーテル教会